鈍感であるというのは最強
こないだ、シュラスコを食べにいってきました。
シュラスコって知ってますか?
ブラジルの料理で、串刺しにされた大きな肉の塊を、テーブルにまわってくるウェイターが切り落としてくれる、というものです。
いろいろな種類のお肉を、時間内であればいくらでも食べられます。
テーブルには札が置かれて、表には「Yes please」と書かれていて、裏には「No thanks」と書かれている。
なので、食べたいときは「Yes」を表に、お腹がいっぱいになって少し休憩するときは「No」を表にして、テーブルにおきます。
すると、「Yes」のときはウェイターがテーブルに随時きて、切り落として分け与えてくれる。
「No」のときは、テーブルには来ない。
そんなシステムです。
それに、サラダもブッフェ形式になっていてたくさんの種類の野菜を食べることもできます。
そんな、シュラスコのお店に行ってきました。
最初は、いろいろな種類のお肉をもってきてくれるウェイターのお兄さんがくるたびに、「わー美味しそう」とかなんとか言いながら、テンションが上がっていたのですが、胃には残念なのですが許容量というものがあって、次第に満腹になっていく。
そして、「少し休憩しよっか」ということで、「No」に札をひっくり返してテーブルにおきました。
安心してゆったりして話に華をさかせていたのですが、しばらくするとウェイターが串刺しで焼かれた大きなパイナップルを持ってきました。
当然、素通りをしてくれるはずです。
だって、私たちは今「No」を表示していますから。
そうゆうシステムですから。
なのに、ウェイターは私たちのテーブルに先ほどと同じように止まって、動きません。
おかしい、と思って、顔をぬっと見上げると、どうやらブラジル人のようでした。
しかし、英語で書かれていますし、そもそもお店の人ですからルールは知っていますよね。
私たちの頭のうえにハテナマークが浮かんでいるのは明らかで、目を見合わせて笑っている私たちに、
小さな声でボソボソと「イカガデスカ?」と言うのです。
そう言われてしまうと、断りづらい。
「じゃ、じゃあ、お願いします」
渋々、承諾。
札が見えなかったのかな、おかしいね、と笑いながらパイナップルを貪る私たち。
けれども、その後もウェイターはくるのです。
「No」にしていても、彼はくるのです。
私たちの札の意思表示なんて、関係ないんです。
彼は、反抗期なのでしょうか。
それとも、サービス心が満点なのでしょうか。
札の意味が、ない。
札の存在価値が、ない。
見えているのに、見ないというのは、すごい力だと思います。
昔、「鈍感力」という本が流行っていましたが、その鈍感力というのは最強なのではないかと最近思っています。
他人がどう思おうと、それには動じない。
自分がいいと思うこと、幸せだと思うことをする。
人になにか言われても、自分の心にその言葉を立ち入らせない。
それができたら、最強だと思うのです。
無駄に凹むこともない。
落ち込むこともない。
そんな世界になるのではないか、と思います。
ウェイターの彼は、サービス業としてはどうかと思うけれど、人にどう思われるかというより自分がしたいからする、を愚直に実行しています。
きっと、彼は幸せでしょう。
仕事であれば、ルールを無視するのはよくありませんけれど。
けれど、彼の照れ臭そうな笑顔を見ていて、そんなことを思いました。
そんな鈍感力と、人の気持ちを察する敏感力をバランスよくもっていたいものです。