ぱんこの日記

ていねいなくらしのために、ゆらゆら書きます。

心が落ちつく場所

自分の地元がすきではなかった。

コンビニも近くにないし、遊ぶところもない。

家は最寄り駅から遠くて、そこから都会に出るのにも時間がかかる。

なんて、つまらないのだろう。

なんて、不便なんだろう。

なんて、ダサいんだろう。

自分のことなど棚に上げては、地元の町を見下していた。

早くここから出たいと思っていた。

檻の中でウロウロしているチンパンジーみたいに、手持ち無沙汰だった。

都会に、出たい。出たい!

そう思って意気揚々と始めた一人暮らしも、いつのまにか気づいたら10年が経っていた。

本当にあっという間だった。

憧れの都会に住み、働き出すと、本当に毎日が楽しくて、煌びやかで、あぁこれが求めていた生活だ、と思った。

地下鉄の駅名をスラスラ言えるようになったり、新しい商業施設ができたらすかさず行くことで心を満たしていった。

憧れの都会人になりつつある、と悦に浸った。

でも、最近少しなにかが違う。

たしかに、都会は便利で、欲しいものが手に入る。

終電を気にして誰よりも早く帰らなければいけないこともない。

もちろん今でも、この生活にはとても満足している。

けれど、本当の意味で満足しているのだろうか。

なんとなく、少しだけ欠けている感じがするような気がする。

なにか、忘れてる。

それは、なんだっけ。

そんなときに、地元に帰って、やっとそれが何か分かった。

それは、ホッとする感覚。

安心できる場所、だ。

あんなに好きではなかった地元が、自分勝手にも、今はホッとする場所になっていた。

やはりここが私の場所だ、と思える。

両親がいて、住みなれた家があって、本音で話せる友達がいる。

地元に帰ることで、私は自分を取り戻しているような、元に戻れているような、そんな感覚になる。

そう思えるのも、もしかしたら、両親が元気でいてくれるから、かもしれない。

友だちが変わらず心を開いてくれて、変わらず笑顔をくれるから、かもしれない。

この家がいまも変わらずあるから、かもしれない。

このすべては、いつまでもあるものではなく、何かのきっかけで崩れてしまう可能性がある。

両親は、日に日に老いていく。

いつ病気になるかわからない。

友だちだって、なにかの拍子に環境が変わって会うことができなくなるかもしれない。

この家だって……。

だから、やっぱり「今」を大事にしていこう。

何1つとして、変わらないものなんてないのだから、今、伝えられるときに感謝をし、大切にしていこう。

あぁ、私も歳をとったものだなぁ。

帰る場所があることを感謝しつつ、また、あの都会の生活に戻るとしようか。

また、すぐに、帰ってくるね。

ありがとう、久喜。

ゴムを感じないパンティ

 

足の付け根が、ゴムで締め付けられて痛い。

お腹周りには、ゴムの跡がつく。

パンティをはくと、これらがつきものだった。

その解決策は「痩せる」(いや、痩せても解決しないのか?)か「履かない」以外なく、しょうがない、と諦めていた。

毎日欠かさず履くパンティ。

少しでも正位置からずれると、気になるパンティ。

だからこそ、ゴムで固定されているパンティ。

毎日のことだからこそ、どうにかして、もっと快適に付き合えないだろうか。

そう、ぼんやり思っていた。

下着というのは、基本的には人に見せる目的のものではないので、注目をされにくい。

けれど、それらは確実に、ジリジリとストレスを与えてくる。

それは、パンティだけではない。

ブラジャーも、まったく同じだ。

男の人にくらべると、女性は「締め付けられる」ものを日々身にまとっていて、窮屈を感じているのかもしれない。

ただ、それが「当たり前」になっているので、そこを回避する手だてが何もなかった。

しかし最近、そこに救いの手が差し伸べられたのである。

それは、ユニクロの「シームレスパンツ」。

たったの590円なのにもかかわらず、この履き心地は素晴らしいとしか言いようがない。

足の付け根は、まったく痛くない。

お腹周りにも跡がつかない。

それでいて、動きやすい。

まるで、パンツを履いていないかのようなフィット感がある。

なんだ、これは。

早速、何人かの友人にこのパンティの素晴らしさを熱弁した。

するとたまたまそのころ入院していた友人から、「このパンツ買ってよかったよ」との声をもらった。

入院中で、少しのことでもストレスに感じるところ、シームレスパンツはかなり快適にしてくれたとのこと。

やはり!

その快適さに魅せられた私は、毎日欠かさず愛用するようになっていた。

もう、ワコールとかトリンプとか素敵な下着メーカーのものはつけれられまい。

一気にシームレスパンツに傾倒した。

そんなある時、私は西新宿にいた。

約束の時間に間に合うか、間に合わないか、ギリギリだった。

走る。走る。走る。

そして、その時はじめて、シームレスパンツの負の点に気付く。

その日はワンピースを着ていた。

ということは、その下はパンティ。

そう、愛用のシームレスパンツである。

歩いているときには気づかなかったのだが、走るたびに、ズルズル、ズルズル。

自然と落ちてくるのだ。

え、パンツが落ちてくる!

そんな経験をしたことがなかったもので、慌てた。

え、どうしたらいいの!

しかし、待ち合わせ時間は迫ってくる。

走るのをやめることはできない。

パンティを抑えながら、走る。走る。走る。

まさか、こんなことになるなんて。

どうやら、私は一つ大きなサイズを買ってしまったようだった。

「シームレスパンツ」

本当におすすめです。

ただサイズだけは、どうかお気をつけを!

 

 

 

 

 

あるかしら? あってほしいと思うこと

いつからか、「妄想」することを忘れていました。

中学生のころは、好きな人に声をかけられたら「もしかして、このあと体育館裏に呼び出されて、好き、とか言われちゃうかも」とかよく妄想していたものです。

アルバイトの面接に受かれば、「きっとかっこいい人がいて、彼氏ができるかもしれない」とか自然に思っていました。

彼氏ができれば、「きっと結婚するんだろう」と。(しつこい?)

どの妄想もたいていその通りにはならなかったけれど、それを考えている間はとても楽しかった。

とにかく妄想をすることが日常で、そのおかげもあって毎日楽しかったのかもしれません。

なのに、社会に出てからでしょうか。

妄想することが、少なくなっていることに気づきました。

いや、ほぼなくなっていました。

それはきっと、仕事脳になってしまっているからかもしれません。

「現実的か」「リスクはあるか」「コストはどうか」ということばかり考えている毎日。

できるだけ効率的に仕事を進めるために、理想よりも現実を優先しなければならない日常。

それでは、「夢」を語れなくなって当たり前なのです。

もちろん理想を描くことはあります。

けれども結局は「現実的」に考えて、自分の考えを、自分でつぶしてしまう。

あぁ、なんてつまらないのだろう。

なんて閉鎖的なのだろう。

頭の中はせめて、どんどんお花畑が広がっていって、そこで転がったり、歌ったり、踊ったりしていたいのに。

いつから「夢」をもったり、考えに「アソビ」を持たなくなってしまったのだろう。

そのことに気づいたときに出会ったのが、あるかしら書店です。

そこは「こんな本、あるかしら?」と尋ねてくるお客さんに、たいてい「ありますよ」といっておすすめする本屋さん。

ヨシタケシンスケさんの絵本の中にある本屋さんです。

王様のブランチで紹介されていて、なんておもしろい本なんだろう、と絵本にもかかわらずすぐに買いました。

絵が可愛いのはもちろんなのですが、その発想力に「はっ」としたり「ふっ」と思わず笑ってしまうのです。

あぁ、どんなこともそんな風に考えられたら、楽しいだろうな、人生が豊かになるな、と気づかされました。

たとえば、本が好きな二人のための「書店婚」とか、読書生活をよりよく送るため、感想を聞いてくれたりはげましてくれる「読書サポートロボ」だったり。

その発想、どこからきた!

どれも、あったらいいな、あったら面白い、というものばかり!

これを読んでいるだけで、ヨシタケさんから妄想のおすそ分けをしていただいているようで、幸せな気持ちになるのです。

今、私が一番欲しいものは「妄想力」なのかもしれません。

きっと、幸せな妄想ができれば、頭の中はいつでもハッピーできっと幸せなはず。

周りの人に気持ち悪いと思われるかもしれない、変なやつと思われるかもしれない。

けれど、頭の中は自由なんです。

きっと、この妄想力がつけばもっと幸せになれる、そう思います。

現実的な毎日にちょっと物足りないひとに、おすすめです!

 

紹介した本:『あるかしら書店』(ヨシタケシンスケ著・ポプラ社

 

 

少し前進して、立ち止まって、そしてまた進む

 

せっかちな私は、ダイエットでも仕事でも、すぐに成果を求めてしまう。

待つことができない。

その効果がすぐに欲しいと思ってしまう。

料理だって、10分後には食べられるくらいのものがちょうどいい。

言ってしまうと、じっと待つことが苦手なのだ。

それを、今回まざまざと感じている。

 

2016年12月からライティングの勉強をはじめて、2000字の記事を書きはじめた。

今まで文章を書くことがほぼなかった私は、それがどのくらいの文量で、どのくらい時間がかかるものなのか、何もわからなかった。

だから、とにかく書こうとした。

けれど、これが一向に進まない。

キーボードは目の前にあって、カタカタ打たれることを静かに待っているのに、全く打つことができないのだ。

え、何を書けばいいの。

面白い文章ってなんだ?

読んでもらえるネタってなんだ?

考えれば考えるほど、手が固まっていくことがわかる。

やっとのことで2000字を書き終え時計を見ると、いつのまにか半日以上経っていた。

あぁ、書くのってこんなに難しいことだったのか。

私にはやっぱり少しハードルが高かったのかな、と思った。

けれども、それと同時に気持ちのいい達成感を感じた。

自分の中にあったモヤモヤが一つ残らず外に吐き出されたような爽快感に満たされたのだ。

文章として「カタチ」にすることって、こんなにすっきりすることなんだ、とじんわりと嬉しい気持ちが広がる。

なんか、いいかも。

もっとスッキリしたい。

もう少しがんばってみるか、と毎週2000字にチャレンジした。

書き切れる日もあれば、書ききれない日もあった。

それでも、パソコンの前に座ってとりあえず書くことにした。

たとえそれが2000字に満たなかったとしても。

すると次第に、少しずつ文章を書くことが楽しくなって、もっと面白い文章を書けるようになりたくなって、4ヶ月コースの講座だけでは物足りなくなっていた。

もっと書きたい。

もっとうまく書けるようになりたい。

身の程知らずではあるけれど、ほとんど勢いで、プロのライターを目指す「プロフェッショナルクラス」にすすんだ。

このクラスは5000字の記事が毎週課せられる。

2000字でさえ書けるときと書けないときがあるのに、5000字だなんて。

私にとっては、それは大きな大きな壁だった。

それを越えよう、越えようとしても、なかなかその壁を越えることができない。

クラスのみなさんが提出する記事を読んでは、毎週凹む。

私はなんで提出できないのだろう。

ただただ指をくわえて見ていることしかできないのだろう。

正直、もうやめてしまおうか、と思った。

けれど、ここで立ち止まって、少しみなさんの作品を読むことに徹してみた。

提出できない葛藤もあり、焦りもあったけれど、じっとしてみた。

きっと自分のなかで何かが変わるはず、と信じて、皆さんの作品を読んでは「ここがいい」「ここはもう少しこうした方がいい」と分析をすることにした。

みなさんの文章は、本当にプロのようで、いやプロよりも面白くて、いち読者として楽しんだ。

ただ、もうこの状態では、毎月の月謝がもったいない。

ここが潮時だ、もう終わりにしよう、と思っていた。

思っていたのに。

気づいたらまた3ヶ月のコースを継続していた。

負けず嫌いの血が黙っていられなかったのだ。

やっぱり、このままでは終わらせられない。なにも成果をだせていない。満足していない。

だから、続けてみた。

最初は、調子がよかった。

記事は提出できたし、なんとか「合格」をいただけてWEBに掲載していただくこともできた。

なのに。それなのに。

また立ち止まってしまっている。

どんどん上手になっていく仲間たち。

それに比べて、私は記事が書けない。

またしても、みんなに追いつけていけなくなって来ている。

どうしよう。

書かなきゃ。

そう思えば思うほど書けない。

でも、ちょっと待てよ。

私はいったい何を焦っているのだろう。

もともと書けなかったではないか。

そこからくれべたら、少しずつ書けるようになって来ているではないか、と。

頭の中での「理想像」がいつのまにか一人走りしてしまって、実力が置いていかれてしまっていた。

その「理想像」を一人で走らせていたのは、他でもないこの私だ。

勝手に焦って、「理想像」がどんどん大きくなっていって、それに追いつかないといってまた焦って。

完全に自分で自分を破滅させようとしていた、ということに気づいた。

もっとゆっくりでいいじゃないか。

少し前進して、立ち止まって、また少し進めめばいいじゃないか。

すぐにダイエットが成功しないように、文章を書くのもすぐにはうまくならない。

少しずつ、少しずつでいい。

あまり自分を追い詰めず、期待しすぎない。

私には、これが一番大事なことなのかもしれない。

浴衣をきてみたら、少し気持ちがかわった

夏と言えば、スイカ、海、そして花火大会!

ちなみに私は、この3つがあまり好きではない。

というか、夏そのものがそもそも好きではない。

汗がたらたら垂れてうっとうしいし、体力を奪われるだけでなく食欲までも奪われることなんかも、どうも納得がいかないのだ。

冬生まれのせいか、冬のほうが断然、好き。

こたつでぬくぬくがやっぱり幸せでしょう、と思ってしまう。

しかし、そうは言っても、夏は1年に1回かならずやってくる。

それをどうにかして乗り越えなければならない。

さて、それではどう乗り越えるか、これが大きな問題になる。

「太陽と風」のストーリのように、または「長いものにまかれろ」と言われるように、ここはもう、抗うのではなく従ったほうが賢明だろう。

ということで、久々に花火大会に行こうという提案に乗っかってみた。

それで、一緒に行く人が「浴衣がみたい」というもんで、着てみることにした。

今までは、浴衣かぁ、メンドクサイなぁ、

どうして暑いのに、あんなに動きにくく、着くずれをきにする浴衣を着るんだろう。

どうして歩きにくいのに、わざわざ下駄を履くんだろう。

と、まぁ、この素晴らしき日本文化をずっと否定的にみていた。

もちろん、浴衣の「萌え」は重々認めたうえで、である。

そんな私が、浴衣を着ることを快諾したのは、そのくらい経験しておこう、と歳のせいだからだろうか。 

それとも、どことなく色めき立つものがあるからだろうか。

今まで着てこなかった「浴衣」に、少し興味が湧いたのである。

男たちが、浴衣姿をみとめた途端に眼の色をかえる、あの「浴衣」に。

そうか、これを着たら私もなにかかわるかもしれない、いや、「着てみたい」と素直に思ったのだ。

ということで、親友に相談。

ありがたいことに、浴衣一式をおかりし、なおかつ着付けまでしてもらうことに。

(妊婦の彼女に、キツク締め付けてもらうのはとても恐縮でした、ごめんね。ありがとう!)

なかなか着付けというのは、面白くて、これがこうなってこうなっていたのね~、ととかく感心しきりだった。

昔の人は、こんな複雑な着方をよく考えたものだ。

着付けが完成し、髪飾りをつけてもらう。

すると、なんと晴れやかな気持ちなんだろう。

なんて、浴衣ってかわいいんだろう。

というか、なんで今までこれを着てこなかったのだろう。

今まで、もしかして「食べず嫌い」ならぬ「着ず嫌い」だったのかもしれないことに気付く。

着ているものが変わると、気持ちも変わる、とはよく言う。

例えば、警察官は制服を着ると正義感がみなぎるというし、サラリーマンはネクタイを締めると気持ちも引き締まる、と。

浴衣もまったく同じで、浴衣を着るだけで、なんだか女らしくなったようで、もう浴衣を着るしか選択肢がなかったんじゃないか、というくらいの気持ちになってくる。

今まで、浴衣を着ている人を「私かわいいでしょ?」と見せてる感を醸しやがってと甚だ嫉妬心を丸出しだったのだが、着てみたらまったくそんなことはない。

「かわいいでしょ」なんて気持ちはではなく、「気持ちが上がる」というただそれだけだった。

ああぁ、夏を楽しむということは、もしかしたらこうゆうことなのかもしれない、と今更ながら気づいた。

「季節を楽しむ」ということは、今まで培ってきたその文化そのものを受け入れて、その中に自ら入ることなのかもしれない。

今回、夏の代名詞ともいえる「浴衣」を着ることで、楽しむことができたのだから、きっとそうだ。

というと、海ももしかして、水着を着てビーチバレーでもしたら好きになれるのだろうか?

いや、そのまえに、水着を着れるだけのボディを手に入れる必要がありそうだ。

 

f:id:tezzy:20170808225109j:image

怒りを覚えるとき

おとなげなく、怒ってしまった。

いや、ふてくされてしまった。

仕事をしていると、自分の思い通りにならないことは多い。

それは、分かっている。

わかっていても、苛立ってしまう。

そして、いつまでたっても、「子ども」な自分に飽きれてしまう。

 

仕事はいっぱいあって、目の前にある仕事をこなしながらも、プラスアルファの仕事をやれという上司からの目標設定。

乗り越えたら、それはなにか変われるのかもしれないし、そうしたい気持ちもなくはない。

けれど、私は仕事以外にもやりたいことがある。

友だちと会いたいし、ライティングもしたい。

ゆっくり読書をする時間だって欲しい。

だから、その「プラスアルファ」は見て見ぬふりをして、それはもはや確信犯的であり、「それでいい」と思っていた。

けれど、目標未達成、と自分の口で言わなければならないのが、悔しかった。

そして勝手だと分かっていながらも、それがどうしても、許せなくて。

自分がやらなかっただけなのに、目標設定が高すぎる、と言っては人を責めてしまう。

そうじゃない。

そうじゃないのだ。

目標が高いのは、期待の表れであり、それに応えるのがサラリーマンであり社会人。

それを放棄していたのは自分で、その代りに手に入れたものもあったはずだ。

だから、私のその「できなかった」ことではなく、その代わりに手に入れたモノはなんだったのか、を考えることにした。

仕事だけの人生にしたくない、そう決めたのは自分だから。

仕事で人に評価されなくても、自分がやりたいことをやりたいだけやって笑っていられる生活のほうが大事。

そういう価値観でいるのだから。

もちろん、お金をいただいているので、しっかり仕事はやるし、自分で決めた時間のなかで精一杯こなす。

考え方が甘い、と思われるかもしれない。

けれど、私はそうゆう生き方をするし、これからもしていく。

自分のことは責任を持って、できなかったことはできなかった、として受け入れる。

そこに苛立つのはおかしかった。

 

仕事の割り振り方、その量にたいする不満はある。

けれど、平等なんてありえない。

だから、そこにばかり目を向けるのではなくて、もっと違う「輝く」方向を見て生きていこう、と思う。

 

仕事は大事。

自分のポリシーも大事。

 

人の指標にばかり左右されないように、自分を強くもっていこう。

 

打ち合わせ中に、突然の告白

打ち合わせは、10分で終わった。

たしかに、10分だった。

思いの外、スッと終わって爽快だったし、私は自分のフロアにすぐにでも帰りたかった。

なぜなら、仕事がたんまりたまっていたから。

仕事は1秒でも早く終わらせたい。

早くやらないと。

今日は高校の友達との会合が夜に控えているのだ。

それまでに、やならきゃいけないことが、たんまりある。

けれど、その相手は「最近どう?」という、「聞かれて困る質問ランキング」3位になるであろう質問をしてきた。

はぁ。そう言われましても。

相手がどんなジャンルの、どんな答えを期待しているのか全くわからない。

とりあえず「最近忙しいんだ〜」と、少しでも早く戻りたいオーラを醸してみた。

けれど、相手はそれを意に解することなぞまったくなく、「そうだよね〜」と同調。

うん、そこは同調ではなくて、「じゃあ、また。この件、お願いします」でいいんだけどな。

作戦失敗。

そこから、話はお互いの色恋の話になった。

といっても、彼は奥さんも子供もいる「妻帯者」。

独身の私とは、身分が違う。

けれど、私を置き去りにして、彼の話はどんどんと進んでいく。

電車に乗って小さくなっていく彼の姿を、ホームに取り残されて見送っているような気分だ。

そんな私の心情など気づくはずもない様子を認めて、呆然としていると、突然告白された。

それが「好きです」とかならまだいい。

そうではない。

それも、昼下がりのオフィスには全くをもって、につかわしくない話。

彼は急にだまりこんで、こう言った。

「……俺さ、実はレスなんだよね」

へ? レス??

「それがさ、深刻で。本当に日々悩んでるんだよ。どうしたらいいと思う?」と。

いやいや、待て待て待て。

そんな話をされる、30代独身女性の気持ちを考えてみよ。

それ、めちゃくちゃ、答えにくいですから。

というか、どう答えたらいいんだよ。

私一応、「女」なんですけど。

ツッコミどころが満載すぎて、グゥの音もでません。

たしかに、だまって話を聞いているととても深刻なのだ。

奥さんは、子供を産んでから、まったくの拒否を決め込んでいるらしい。

かれこれもう2年半になるという。

彼も33歳。

それは、さぞ辛かろう。

私は男ではないので、本当の辛さをわかってあげられないのだが、きっと大好きなクリームパンが一ヶ月食べられないのと同じくらいだろうか。

それとも、一ヶ月なにがあっても「笑う」ことを禁じられたくらいの辛さだろうか。

どれもこれも想像することが難しいけれど、きっとそれくらい、いやそれ以上に辛いことなのだろう。

それを、彼の苦い表情は如実に物語っていた。

どうやら、それはそれは真剣に、誠実に、悩んでいるようなのだ。

「俺さ、だから、嫁に相談したんだよ」

「え、なんて言ったの?」

「もう、我慢できないから、誰かと一晩すごしてもいいなかな?、って」

は?

正気か。

呆れてモノが言えない。

辛さはわかるけれど、それを言って許されるとでも思ったのだろうか。

アホすぎる。

もうよくわからなくなって、どの立場だよと自分で自分にツッコミながらも、その「嫁」の代わりに説教をした。

それだけはいけないよ、と。

子供がいるんだからね、と。

果たして私の言葉は、彼の心の中心にきちんと届いただろうか。

欲望に溺れて、本当の幸せを見失わないようにしてもらいたいものだ。

「男の欲望」、本当におそるべし。

そんなことを感じた、昼下がりの打ち合わせ。

まったく、なんの相談に乗ってるんだ、私は。