ぱんこの日記

ていねいなくらしのために、ゆらゆら書きます。

ひとり旅だからこそ

初めてのひとり旅行。

ずっとしてみたいと思っていたけれど、根っからのさみしがりやの私はそんな決意をすることはできませんでした。

いつかしてみたい、してみたい、と思いつつもそれはまるで本当に叶えたいと思っているかわからないような夢の夢のまた夢の、夢物語だったのです。

このたび会社から長期休暇をいただけることになり、きっとこれがチャンスなのかもしれないと思いたち、エイっと、ウィーンに行くことに決めました。

初めてのひとり旅で、英語もままらず、ウィーンがあるオーストリアの母国語はドイツ語です。

もちろん、ドイツ語なんて見たことも聞いたこともありません。

「よくそんなハードル高いところにしたね」という声もいただきましたが、

全くその通り。

なんとかなるでしょ、とそう言われたときにはあまりその無謀さに気づいておりませんでした。

しかし、ウィーン空港に着くないなや、いや成田空港のチェックインカウンターで西洋人に囲まれた時から、冷や汗垂らし続けることになりました。

いやー、緊張する。

いやはや、どうなることやら。

 

90点主義とは?

「90点主義でいいんじゃないかと思うんだよ」

友達は唐突にそう言った。

さっきまで、カレーを満足そうに食べて、このお店を気に入ったとニコニコ笑っていた彼女は、私がホットティを呑気に飲んでいるちょっとの間に、真剣な顔つきになっていた。

「ん? それって、90点を目指すってこと?」

仮にそうだったとしたら、「100点は目指さない」「カンペキを求めない」という意味だろうか。

いや、それにしても90点は高すぎる。

完璧を求めすぎて、そして求められすぎて、苦しんでいる現代人にとってはむしろ60点主義くらいがちょうどいいような気さえする。

「ううん、そうじゃなくて」

そういうと、彼女はすぅっと息を吸い込んで一気に話始めた。

「自分の身の回りにあるもので、90点以上のものしか持たないってこと。自分が管理できるものなんてたがたしれてるでしょ? 欲しいものはどんどん増えていって、その欲望に忠実になればなるほどモノに溢れてしまうけれど、でも人一人が管理できるものなんてそう多くないんだと思うの。だから、自分が持っているものはすべて90点以上。それ以下のものは捨てる。そうすることで、きっと豊かな生活を送れるんだと思うの」

なるほどなぁ。

たしかに、そうかもしれない。

自分が持ってるものってよくよく考えてみると、刹那的な欲求で手にしたものが多い気がする。

たぶん6割以上はそうだろう。

 

LINEのお知らせで毎日のように入ってくるユニクロからのお知らせ。

欲しいものや必要なものがあるわけではなくとも、そのお知らせをついつい読んでしまう。

そしてあたらしい商品があると、はたまたそれが安いと感じると、次の週末には買いに行こうかしら、と頭の中に購入欲がムクムクと湧いてくる。

私は、まんまと広告に引っかかるバカな消費者なのである。

その購入欲が週末までに消滅しなければ、あちらがわの思惑通りレジに並び、お金を払う。

これこそが、無駄な購入。

本当に必要か。

これを持っている必要はあるのか。

あったら便利かも、いつか使うかも、と思って所有してはいないか。

モノが少なければ少ないほど、シンプルになれる。

それは物質的にも、心的にも。

部屋の中がガランとして、整理整頓ができていれば、気持ちが穏やかですっきりするものだ。

京都のお寺の枯山水を思い浮かべてみてほしい。

枯山水は、いたってシンプルな構成をしている。

砂、岩、石。

そのくらいしかない。

整然と綺麗に並んでいるそのシンプルな庭を見るだけで、心も洗われる気がしないだろうか。

そして、どことなく上品な印象を抱くのではないだろうか。

それは、砂や石を大切に扱っていることが、こちらに伝わってくることにほかならない。

モノが多くなれば、一つ一つを大事に扱うことが難しくなる。

もし庭に、岩や石の数が多かったとしたら、その配置や手入れはゾンザイになりかねない。

けれど、枯山水は、究極に美しい適度な数の石や岩で構成するのだ。

それと同じように、リビングやキッチンや風呂場をしていったらどんなに気持ちがいいだろう。

90点以上のものだけで自分の身の回りを構成できたら、どんなに気持ちがいいだろう。

90点主義、少しずつ実践してみるのもいいかもしれない。

本音を語ること

かねてから、人と仲良くなったり、距離を縮めたいときには、まず先に自分の腹をパックリ割って、すべてアケスケに話をしようと思ってきました。

小学校の新しいクラスで友達を作るとき、仲間はずれにされたとき、いつも一緒に居られる友達ができたとき、それぞれで、パックリ本音で話すことが必要なんだと心のどこかで理解していたように思います。

それは、おそらく「本音」を自分に伝えてくれた人ほど、その人に親しみを覚えたからかもしれません。

とにかく、その「本音」をもらえることが、私はとても嬉しかった。

そして、自分も少し「本音」を話すだけで、その人との距離は少し縮まったように思えたのです。

 

少しずつなんどもそれをくりかえすことで、自分の中でそれは確信に変わっていきました。

仲良くなりたい人には、自分から心を開いていこう、と少しずつ価値観が固まっていったのです。

それなのに。

大人になるにつれて、本音を語るということは、自然と少なくなっていきました。

自分が思った素直な気持ちを、正直に伝えられなくなってきました。

それはなぜか。

社交辞令、をしないとうまく生きていけなくなったからかもしれません。

または、それぞれ人によって「環境」が異なっていて、話のジャンルや言い方をチョイスしないといい関係性を保てないだろう、という保身からかもしれません。

とにかく、格段と、本音を語ることが少なくなりました。

それが、昨日、ひさびさに上司と同僚と話をしていて、少し思うところもあって、普段は話さないであろう、いや、話してはいけないと脳の片隅に追いやってしまうようなことを、話していました。

おそらく、日頃のいろいろなイライラやモヤモヤがそうさせたのだと思います。

最初はおそるおそるでしたが、次第に気持ちがすっきりして、とてもいい気持ちになりました。

いやー、それが自己満だと言われててしまえば、それはすいません、としか言いようがないのですが、

けれど、上司も同僚もそれから、腹をわっていろいろと話してくれているような、そんな気がしたのです。

それが、小学生のときに感じていた嬉しさと似ていて。

どこか懐かしい気持ちとともに、あぁ、そうだったよな、と自分の原点に立ち返ったような、とてもほっこりとした気持ちになったのです。

大人になると、着飾ってしまったり、肩書きを気にしてしまったり、見栄を張ってしまうことがあるけれども、

大事なところはそこではない。

心通わす会話のほうが、私には大事なんだと、それが幸せなんだと、なかなか終電がやってこない山手線のホームで、そう思ったのです。

 

やっぱり、本音で話すことって、必要なのかもしれません。

とんと、ご無沙汰してしまいました

旅行の話を書く、といいながら、書けずに今まで来てしまいました。

そうこうしているうちに、ひとつ近場の温泉旅行をして、そして今月末はウィーン旅行です。

旅行が続いてます。

今までは、一年に一回くらい旅行にいけばいいほうだったのですが、今年は勝手に旅行フィーバーしています。

不思議なもので、どんなに旅行に行っても、すぐにまた行きたくて行きたくて、うずうずしてしまいます。

全然旅行に行ってないころには、うずうずすることなんてなかったのに。

まるで、それまでたまに食べるけどそこまでハマってなかったお寿司が、ある時開眼して急にマイフェイバリットフードになり、食べたくて食べたくてしょうがなくなるような。

または、今までは普通に着られる服を何の気なしに買いに行ってたのに、一度オシャレをしてみたらさらに可愛い服が欲しくなって、買い物欲がうずいてしまうような、そんな感じでしょうか。

しかし、欲望のままに旅行をしつづけると、なんだかこのままでは、旅行バカになってしまいそうで、少しだけ怖い。

そう、こんなんは、今年だけなはず。

リフレッシュしまくっていたら、旅行で忙しくなって、なんだかよくわらない日常になって、おかしくなっていまいますものね。

 

ということで、ちょっと話を旅行から話すと、

最近、綾瀬はるかって、綺麗すぎませんか? ということ。

「奥様は取り扱い注意」というドラマを見ているのですが、綺麗すぎて、可愛すぎて、ずっと見ていたくなってしまう。

まるで綾瀬はるか中毒。

話も面白いですしね。

来週も楽しみです。

 

 

東南アジアにいったら、少し考えがかわったこと

今まで、旅行ってめんどくさいなーって思っていた。

いや、世間一般的な人たちと同じように、私だって旅行は好きだ。

むしろ大好きだ。

今までも、国内外問わず、人並みくらいには旅行している。

美味しい食べものは食べられるし、自然を身体全体で堪能してリフレッシュできるし、そしてなによりも日常生活から解き放たれた自由を手にする瞬間は、たまらない。

旅行は、いつもの生活では味わえない快感を得られるのだ。

だからか気づいたら、「旅行いきたいなー」ってうわ言のように言っていることも多い。

それでも、それなのに、私は内心ではめんどくさいって思っていた。

 

行きたいといいながらも、めんどくさいと思う。

それは、高校生が大学行きたいと言いながら、まったく受験勉強をしたくないのと同じ原理で。

欲望はあるのだけれど、自分への負担が大きいことはできるだけやりたくない。

受験勉強が心底いやになって途中で受験を諦め、指定校推薦をもらって大学に入学した経験をもつ私は、いつまでもそのスタンスが変えられない。

旅行に行きたいのはやまやまで、けれども選ばないといけないこと、決めないといけないことがたくさんあるのが、とてつもなく、めんどくさい。

どこにいくのか。

どうやっていくのか。

何を着るのか。

何を持って行くのか。

予約はどうやってするのか。

考えなきゃいけないことがたくさんある。

面倒臭がりのグータラな私には、負担が大きい。

友達が全部決めてくれることだってあるけれど、それも申し訳ない気持ちになって、どう挽回しようかとウヨウヨ考えて、けれど結局自分にできることなんて何もなくて、むしろ迷惑をかけてしまう。

そんなことも多い。

けれど、それでもなお、いつだって旅行に行ってよかったって最後には思うのだ。

「めんどくさい」から始まって、「行ってよかった」「楽しかった」で終わる。

今回の旅、シンガポール-マレーシア(ペナン島ランカウイ島)-タイの旅も、本当に楽しかった。

人が暖かく、食べ物も美味しく、トラブルは少しあったけれど、一緒にいった仲間が優しく助けてくれ、笑っていない時がないくらい和やかで、健康が少し損なわれた時もあったけれど、それも仲間に助けられた。

もしかしたら、なによりも仲間のことをより好きになれたことがこの旅の一番の収穫なのかもしれない。

 

そして、今また次の旅を計画しているのだが、なぜだか以前のように、めんどくさい、とは思わなくなっていた。

時間があればもっともっと旅行に行くべきだ、といつのまにか考えが変わったようだった。

東南アジアが楽しかった、が、準備のめんどくささよりもだんぜん上回って、それが次の旅行への原動力になっているようだった。

きっと旅行は楽しいだけではなく、他にも得るものがあることに気づいたからかもしれない。

自分の考えやモノの見方が少しだけ変わる瞬間に出会える。

日本以外の国のことに興味を持つきっかけをもつことができる。

日本のことがより好きになれる。

計画を立ててしっかり準備した分、「楽しい」リターンが大きい。

などなど。

今回の旅をきっかけに、もしかしたらこれからは、「計画立てて準備するのが楽しい」から始まって、「行ってよかった。楽しかった」で終わることができるかもしれない。

と、ちょっとだけ期待している。

 

ということで、少しずつゆるゆると旅日記を書いていきたいと思います。

 

 

 

イラつかせる人は、大切なことを気づかせてくれるってほんと?

彼は「ふぅっ」とゆっくり一つ、ため息をついた。

これまで彼の大きな瞳を、どれだけの時間見てきただろう。

私と彼は、いつもと同じように向かい合って座っている。

周りには人がたくさんいて、けれど私たちはそんなことにかまうことなく、私たちだけの世界にいた。

まるで周りにだれもいないかのように、目と目を見合って、それはもう誰をも寄せ付けない空気を醸し出していただろう。

きっと私たちの声は聞こえている。

けれど誰ひとりとして、それを聞いていない風を装って座っている。

まるで、駅の改札でカップルがいちゃついているのを、見て見ぬふりをするかのように。

そんな風に、誰もがしれっと下を向いているけれど、耳をそばだてて聞いているのだ。

あぁ、なんてはずかしいのだろう。

そう、だって私たちは、互いにまったく分かり合えていないのだから。

大きな声で、それはフロア中に響き渡る声で、自分の意見を相手になりふりかまわずブツけている。

あぁ、もういやだ。

早くここから抜け出したい。

この人の前にいるときは、いつだって逃げ出したい気持ちにかられる。

向かいあって座っているのは、私の上司。

人の気持ちを逆なでするのがとても得意で、相手の気持ちを汲むことなんてない。

そんな上司。

イラっとさせる人とは、なるべく一瞬たりとも同じ空間にいたくない。

そう思ってしまう。

けれど、他人は自分の鏡という。

その「他人」とは、自分以外の人という意味で、それに例外はないらしい。

というと、この上司も私の鏡なのだろうか。

え、絶対違う。

そんなの信じたくない。

けれど、イラっとさせる人には、どうしてその人にイラっとするのか。

その人になんて言ってやりたいのか。

それこそが、自分に向けた言葉らしい。

というと、

「ちょっとくらいフォローしてくれてもいいじゃないか」とか、

「頭ごなしにいうんじゃねーよ」とか、

「こっちのことも理解しろよ」とか。

そうゆうことを、私は私に思っているのだろうか。

まったくもってどう解釈していいのか、わからない。

けれど、ひとつ言えるのは、自分の上司への態度が「思い上がり」そのものでしかないということ。

生意気でしかないということ。

相手の言葉を受け止めて、おちついて自分の意見を伝えることができなかったのはなぜなのか。

どうしてなのか。

それは、私はおごっているところがあったから。

謙虚ささえ持っていれば、彼にかみつくことは絶対になかったはずだ。

たしかに、そうなのだ。

私には、謙虚さがたりない。

「謙虚さを大事にしなさい」

それが自分に対するメッセージなのかもしれない。

大人気ない対応をしてしまったことに、果てしない底に落ちていくように感じるほどの「恥じ」と自分自身への「怒り」を感じていたけれど、そうじゃない。

私には、今謙虚さが必要なんだ。

今日という日は、もう戻らない。

だから、明日から、明日こそ、謙虚さをもっていたい。

謙虚さと少しの笑みを絶やさずにいたい。

きっとそれが、私へのメッセージなのだ。