本音を語ること
かねてから、人と仲良くなったり、距離を縮めたいときには、まず先に自分の腹をパックリ割って、すべてアケスケに話をしようと思ってきました。
小学校の新しいクラスで友達を作るとき、仲間はずれにされたとき、いつも一緒に居られる友達ができたとき、それぞれで、パックリ本音で話すことが必要なんだと心のどこかで理解していたように思います。
それは、おそらく「本音」を自分に伝えてくれた人ほど、その人に親しみを覚えたからかもしれません。
とにかく、その「本音」をもらえることが、私はとても嬉しかった。
そして、自分も少し「本音」を話すだけで、その人との距離は少し縮まったように思えたのです。
少しずつなんどもそれをくりかえすことで、自分の中でそれは確信に変わっていきました。
仲良くなりたい人には、自分から心を開いていこう、と少しずつ価値観が固まっていったのです。
それなのに。
大人になるにつれて、本音を語るということは、自然と少なくなっていきました。
自分が思った素直な気持ちを、正直に伝えられなくなってきました。
それはなぜか。
社交辞令、をしないとうまく生きていけなくなったからかもしれません。
または、それぞれ人によって「環境」が異なっていて、話のジャンルや言い方をチョイスしないといい関係性を保てないだろう、という保身からかもしれません。
とにかく、格段と、本音を語ることが少なくなりました。
それが、昨日、ひさびさに上司と同僚と話をしていて、少し思うところもあって、普段は話さないであろう、いや、話してはいけないと脳の片隅に追いやってしまうようなことを、話していました。
おそらく、日頃のいろいろなイライラやモヤモヤがそうさせたのだと思います。
最初はおそるおそるでしたが、次第に気持ちがすっきりして、とてもいい気持ちになりました。
いやー、それが自己満だと言われててしまえば、それはすいません、としか言いようがないのですが、
けれど、上司も同僚もそれから、腹をわっていろいろと話してくれているような、そんな気がしたのです。
それが、小学生のときに感じていた嬉しさと似ていて。
どこか懐かしい気持ちとともに、あぁ、そうだったよな、と自分の原点に立ち返ったような、とてもほっこりとした気持ちになったのです。
大人になると、着飾ってしまったり、肩書きを気にしてしまったり、見栄を張ってしまうことがあるけれども、
大事なところはそこではない。
心通わす会話のほうが、私には大事なんだと、それが幸せなんだと、なかなか終電がやってこない山手線のホームで、そう思ったのです。
やっぱり、本音で話すことって、必要なのかもしれません。