ぱんこの日記

ていねいなくらしのために、ゆらゆら書きます。

ミニマリストになりたい

私は、いつだったか、ミニマリストになりたい、とぼんやり思っていた。

きっかけは何気なく、本屋さんで手に取った一冊の本。

その頃は、まだ「断捨離」という言葉がメジャーデビューをする前後だったと思う。

本の題名を忘れてしまったけれど、とにかく「モノを少なくするといい」というようなそんな感じだった。

表紙には、著者が草原で、お団子頭にシンプルな白とベージュの服装で瞑想をしているような、どこかヨガを連想させるような、とても健康的な写真が載っている。

著者は、フランスかどこかに留学して、大学院まで出て、そこで出会った教授に日本の「布団」はえらくエコだと感心されたことに感銘を受け、その教授のミニマリストぶりに多大なる影響を受けたそうだ。それで、フランスから戻って鎌倉に住むようになると、モノは買わず隣人から借りるようになったという。その徹底ぶりは素晴らしい。たとえば、服は片手で数える程度。食べる物は自分で育てる。ティッシュは何度も使う、など。もうすっかりおぼろげな記憶しかないけれど、そこまでするか、とあんぐり口をあけて驚くような暮らしっぷりだった。とにかく、モノにあふれた現代人には考えられられないような暮らしをしている人だった。

 

この本を読んで、

ふーん。こんな人もいるんだな~私も機会があったらやってみたいな~

というように呑気に考えていたものだったが、なにも行動は起こさず。

しかし、今度は自分が少しだけ本気で「ミニマリスト」とやらになってみたくなってきた。

 

今回のきっかけは、あの、平野ノラ。芸人さんだ。

バブリーを売りにした派手な芸風だけれど、私生活は超がつくほど質素だそうだ。

彼女の部屋は、古い和室。畳に押入れがあって、部屋に入って見渡すと人が住んでいるとは思えないほどにモノが全くない。見当たらない。モノは押し入れの中に入っているだけという徹底ぶり。

いやー、これはすごい。

その様子をテレビで見て、普段とのギャップに驚くと同時に、かっこいいと思った。

ミニマリストになりたい、というよりは私もそのギャップほしい、その想いの方がもしかしたら強いのかもしれない。

 

番組が終わるやいなや、「捨てるものはないがー」と泣く子を追い回すなまはげバリに、部屋の巡回を開始した。

いち早く目を付けたのは、本棚。一度読んだだけでもうよむ予定のないものはすべて、ゴミ箱行き。30冊くらい、私の欲望の犠牲になってしまった。ごめんよ、本たち。

その次は、炊飯器。もう、かれこれ1年以上使っていない。鍋で炊くようになり、触れることすらなくなった。鍋で炊いたほうが、早い。そしてうまい。そうゆうわけで、炊飯器は私にとって、てんで必要でないものになってしまっていた。ということで、こちらもさようなら。

最後に、目をつけたのがお皿。一人暮らしのくせに4人くらい暮らしていそうなほどの皿の量。どう考えてもこんなにはいらない。友だちがきたときに必要だから……と思っていたけれど、友だちが来たときは紙皿で十分対応できる。普段の生活には、過剰な量のお皿は、「食後に洗わなくてもまだまだ使えるお皿はある」という言い訳でシンクに汚いお皿を増やすだけなのだ。そう、自分を怠惰にするだけだった。そのことに気づいたら、もはや大量の皿が悪の根源にしか思えなくなってしまって、まったく惜しむことなく、こちらもあっさりさようなら。

 

ここまできて、部屋はずいぶんすっきりした。部屋よりも気持ちの方がすっきりしたかもしれない。ナマハゲも子どもに泣かられればなかれるほど快感を感じるのだろうか。だとしたら、結構仲良くなれるかもしれない。

なんて妄想すると、今度は、少しミニマリストに近づいたな、と自己満足がこみ上げてきた。そしたら、誰かにこの気持ち良さをたまらなく伝えたくなった。そうだあの子に、と思い立って「モノを捨てる」ことにおいてついこないだ意気投合していた友人にLINE。今、結構捨ててやったよ、とかなり得意げに、そうドヤ顔でかなりどうでもいい報告をした。

すると、すぐに彼女から画像が送られてきた。

「私の本棚」というメッセージと共に送られてきた写真には、4冊の本しか映っていなかった。どうやら人にあげたり、売ったりして、残ったのがこの4冊とのこと。

あぁ、負けた。完全敗北だ。まだまだ私は初心者レベルなのだと思い知った。このくらいでドヤ顔をしている場合ではなかったのだ。

 

ということで、今日は、帰るやいなや、私はまた本棚と向き合い、ナマハゲ業を行う。そしてきっとこの欲望は本棚にとどまらず、ついにはタンスにも手をかけるだろう。

すっきりした部屋を手に入れるのはいいが、いつか後悔する日がこないことを祈るばかりである。 

 

 

 

 

さくらももこってすごいな

たいのおかしら、をここ最近読んでいます。

さくらももこさんが書いたエッセイです。さくらももこさんは、周知のとおり「ちびまるこちゃん」や「コジコジ」の漫画で有名な漫画家です。これらの漫画も可愛くてすごく好きです。特にコジコジ

だけど、彼女のエッセイがとてつもなく、すごい。

中学だったか、そのくらいの時に彼女のエッセイ「もものかんずめ」とか「さるのこしかけ」「まるこだった」などを初めて読んで、面白くて何度も読んだ覚えがありますが、友人のおすすめ本として紹介してもらって、再度読み始めました。

その時は、ただただ面白いとしか思っていなかったのですが、今読んでみると、いろいろなことに気がつくのです。

 

今、文章を書く勉強をしていると、いろいろな壁にぶちあたります。

まずは、ネタ探し。面白い、人に共感してもらえるようなネタがなかなか見つからない。書きたいのに、何を書けばいいのか、と悶々とする。これ、結構大きな壁。

それから、自分の考えが、ない。だから、何か起こったことを書いても、着地がうまくいかない。途中まで書いても、結末がうまくまとまらないから、すっきりした記事にならない。日頃から深く考えていないことを痛感する。

 

一方、さくらももこさんは、ネタが豊富。漫画を描いたりしているから、日頃から何か面白いことはないか、その時にどう思ったか、きっとアンテナをはっているのでしょう。

また、自分の思った気持ちを率直に書いているので、読んでいるこちらがスっとしたり、クスっと笑ってしまうのです。ちゃんと自分の「考え」がある。

さらに加えると、表現方法が独特で、「ひがみ」だったり「自己卑下」をかなり含めた表現をする。それってなかなか勇気のいることなんですけど、それを怖気づかずに書いているのがすごい。そして、読み手に分かりやすいような「たとえ」が秀逸。少し、斜めから見ている感もあるけれど、それも痛快でそれがまたいい。

 

こんな文章が書けるようになったら、楽しいだろうな。これから、何度も読んで、面白さの理由を研究しようと思います。

 

4末まで仕事がいちばんの繁忙期で、心も体もくたくた。なので、リフレッシュのために久々にコストコいってきます!

自分の頭のなかのフォルダ

こうして、文章を書くようになってから、今まで気づかなかったことに気づくようになりました。

 

一番は、自分が根暗であるということが、まざまざと見せつけられたことがあります。

もともと、その自覚はあったのですが、こうまで暗いか、と自分にちょっとがっかり。というのも、これまでの自覚は、なんとなくぼんやりだったのです。だから、見過ごしていました。そうゆうとこもあるよな、くらいの軽い気持ちでした。

「私さぁ、根暗なんだよね~」

たぶん、高校生のときはこう言っては、何かにつけ友だちと深い話をすることが好きでした。悩みをみつけては話していたと思います。1つのことを掘り下げて考えて、あーでもない、こーでもない、と話続けていました。きっと、悩むこと自体が好きだったんだと思います。悩む自分に酔っている、かもような。それに、深い話をすることで、友だちと少し距離が縮まるような気持ちになれることも、たぶん助長していたでしょう。この時は、ただ自分にはそうゆう側面があるよな~、くらいの自覚。

しかし、文章を書こうとするとそれが、もうハッキリとする。それは、まるで乱視でメガネをかけていないときの見え方と、メガネをかけたときの見え方くらいの違いなのです。

それはこうゆうことです。

2000字なり5000字の記事を書こうとします。すると、自分の暗い、黒いところばかりが出てくるのです。あれ、楽しい話が全然でてこないな。毎日、おもしろいことは起きていてなにかと笑っているはずなのに。思い出せない。楽しい思い出が、私の頭には残っていない。その時その時は楽しくても、笑った瞬間に即座にデリートされているような気分です。一方、いやなことや怒ったことは、しっかりと脳内フォルダに保存されていて、記事を書こうとするとそればかりが引き出されてくる。

外面よく、いつもニコニコしていると、自分の心のドス黒さに自分でも気づいていないところがありました。もしかしたら、言葉の端々には出ていたのかもしれません。グチをいったりしているので、おそらくそうだったのだと思います。何かにつけて、悪いところを見つける思考回路をしていたと思います。あぁ、ここまで黒かったのか。

 

だから、これからは考え方を変えていこう、と思います。楽しい記事を書きたい。ぷっと笑えるような記事を書きたいから。

できごとやものごとをプラスに変換していきたい。どんな過程を経ていたとしても、最後がプラスで終わっていればきっとプラスフォルダに格納されるはず。だから、イヤなことがあったり腹が立っていても最後の着地はプラス。これでよかった、と思えるように着地する。そう「解釈」することで、それがただの「いやな出来事」から何か自分なりの「教訓」に変わっていくかもしれないな、と思います。

そして、プラスフォルダはデリートしないよう、そしてもしデリートされても思い出せるようにしていこうと思います。メモだ、メモ! 頭で忘れてしまうのであれば、残せる形にしていこう。

 

根明にはなれないかもしれないけれど、根明の仮面を目指します!

はんぼーぼー期

繁忙期となりました。

なにかと落ち込みがちなこの時期を、出来るだけ明るい気持ちで乗り切りたい。

 

とても忙しくて、気持ちが落ちがちな辛い状況でも、その状況を楽しんで仕事をしている人を思い浮かべてみました。

睡眠時間が2時間で、お客様に怒られたりしても、どこかで力を抜いてその状況すら楽しんでいるように見える人。

いやなことを、笑いに変換できる人。

辛い状況でも遊びごころを忘れていない人。

そうゆう人は、仕事はできるし、人からも好かれています。

魅力的なんです。

 

自分のできないことが炙り出てきて、なかなか気持ちが落ち込みそうな時。

そんなときこそ、くだらないことを考えてみませんか?

甘くてふわふわで幸せでした

「どう? 美味しい?」

「ふ……」

 

日頃の生活で、「ふ」ってあまり出てこないですよね。「え」とか「あ」とか「わ」とかは出てきても、「ふ」って私は出てこないんです。どうやら本当に、本当に、心から美味しいときにでてくるのは「ふ」、ということが分かりました。

 

これは、人生で一番おいしいフレンチトーストを食べたときにでた一文字。これは、単語でもなんでもない、ただの息に「ふ」という音がついただけのなんの意味ももたないものですけれど、一文字で表現できる言葉って面白いですよね。

「と」といえば、戸棚の戸。

「は」といえば、歯でもあるし、イントネーション次第ではいけすかない奴に喧嘩を売る言葉でもある。

「か」は課もあれば蚊もある。

 

こう考えていくと、一文字で言葉を成り立たせようとしたことってそれ自体がすごくないですか?  だって、他の意味に取られるリスクがあるじゃないですか。それをいったら、2文字だって3文字だって同じですけど。けれど、たった1文字で単語にする勇気がすごいと思うんです。たった1字ですよ? 男気を感じませんか?  短すぎるからと、なんとなく長くしておきたい気持ちにかられなかったのでしょうか。私だったら、1文字は少し不安だ。いや、すごく不安だ。せめて3文字以上にしちゃうだろうなって思うんです。

アルファベット1文字で表現できる単語ってあるのでしょうか。ないような、気がします。他のスペイン語、フランス語、イタリア語、などヨーロッパのほうってどうなんでしょうね。なんとくなんですけど、ないような気がしてなりません。(というか、ないと言ってくれ)

けれど、中国語や韓国語はたぶん一文字の単語があるでしょう。日本語のこの一文字の言葉というのは、アジア圏の仲間である証拠のように思えてきました。(本当かどうかはわかりませんけど)

 

言葉の語源とか、仕組みとか、まったく勉強したことないですけど、1つの単語がどのように成り立っているのかと思いを馳せてみるのも面白いかも。

 

※ただのつぶやきですみません。

 

フレンチトーストファクトリー  @秋葉原

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こたつの下は、コミュニケーションの場

今は、家族がバラバラに暮らしているので、こんなことも少なくなってしまったのだけれど、今思えばとても好きな瞬間だったなぁ、と思う。

 

それは、こたつでの団欒。

 

家族4人でこたつに入っていることが好きだった。父は新聞読んでるし、母はみかん食べてるし、兄は寝転がっているし、私は……なにしてたかな。とにかく、みんな思い思いに過ごしているその瞬間が好きだった。

実家にいるときは、それが日常すぎて、当たり前で、何も感じることはなかった。けれど、4人揃ってこたつに入っているとそれだけでホッとしていたように思う。あれは「幸せなひと時」の何ものでもなかったのだな、と今さら気づく。

 

振返ってみると、大事だったなぁと思う瞬間ってある。

 

その、こたつでの話。

私たち家族は、こたつの中でだれかの靴下を脱がすことが横行していた。

「だれよー! お母さんの靴下脱がしたのはー!」

いつだったか始まった。

いつも反抗ばかりしていた、私にとっては怖い怖い、兄の仕業だった。

いつも大きなこと言ってつっぱっていても、甘えたいときもあるんだよね。

この「靴下脱がせ」は、だいたい兄から母、母から私、私から父という流れだった。

別に決めたわけでもなんでもない。でも、なぜかそうだった。

それで、みんなで笑い合う。

 

なんでもないこと。だけど、今こうして書いていると、胸にグっとくる。

大きな事件なわけでも、別に面白いことでも、なんでもないのに。

でも、そうゆうのが幸せっていうんだな。

そうゆう思い出があることが、なんだか嬉しい。

 

何でもないようなことが幸せだったと思う。

 

うん、本当にその通りだ。

その何でもないこと、を大事にしようと思うのに、手からこぼれ落ちてしまう。

 

どうでもいいですが、

カフェの隣にいる、韓国人が韓国語でもう1時間ちかく電話で話しているのだけれど、しきりに「クサナギ」って連呼している。

何はなしているのかなぁ。

 

なんでもない幸せ、ってなんですか?

 

最近きづいてしまったこと

ずっと私は、私と一緒にここまで生きてきたのに、やっとここ1~2年で気づいたことがあります。

それは、「短気」だということ。それもかなりの。

なぜ今まで気づかなかったのだろう。

ショックです。実にショックなのです。今ごろ気づくなんて。

 

グッドポイントだったら、きっと人に褒めて頂いたりして気づきやすいんだとおもうんです。

髪きれいだね。いい声してるね。優しいよね。とか。

言っているほうも、相手が喜んでくれたら嬉しいですものね。そりゃ言いたくなると思います。

でも、デブだね、ブスだね、とは誰も言いませんよね。

それと一緒で、「あなたって短気よね~」だなんて言ってくれません。

私も、大好きな友だちにわざわざ「ねぇねぇ、短気だね」なんて言いません。

嫌われます。

明日から無視されます。

 

そう考えると、自分の短所を気づくのって難しいですよね。

自分で気づくか、もしくは家族に指摘してもらうくらいしいかないような気がします。

たまに、良心的な友だちは買い物している時とかに「その服似合ってないよ」って言ってくれたりしますけど。

そうゆうのってとってもありがたい。

あぁ、友よ、私の短所をズバズバ言っておくんなまし! とすら思えてきました。

Mかよ。

 

自分が短気だと気づいてからは、それはそれは過ごしやすくなりました。

自分の行動に、一言端的な言葉で説明がつくようになったからかもしれません。

 

今日も、こんなことがありました。

「これ、どうなってる?」

「○○という感じで進んでいます」

 「じゃあこうしてね。そうしないと……」

 

この「そうしないと……」以降が長い! 

いやー、終わらない!

もうわかったよ。同じこと何回も言わなくても分かってるよ。

むしろ、私もそう思っていたんだよ。

というので、もうイライライライラしていました。

心の中では、かなりの速めの地団駄をふんでいました。

 

前だったら、あーイライラしてしまったな。たぶん態度に出ちゃったな、申し訳ない。

って思っていたところなのですが、今回は違いました。

だって、私短気だもん、と。

あー楽ちん。

 

でもなんだか、ただ単に、意気地が悪くなっていっているだけのような気がしないでもないけど。

ま、いっか!

こうやって自己認識をしていくと、生きやすくなっていくのかもしれません。

どうやら、今はやりの「嫌われる勇気」、私にはすでに備わっているようです。