ぱんこの日記

ていねいなくらしのために、ゆらゆら書きます。

うちのお局さまが、機嫌が悪いんですけど

月曜の朝で、みんなまだスイッチが入っていない朝のこと。

うちのお局さま、どうやらご機嫌斜めのようなのです。

ま、月曜だしな、と意に介さずこう声をかけました。

「〇〇さん、おはようございます!  金曜はありがとうございました!」

金曜に外出先で粗相をしてしまったために、ご迷惑をおかけしてしまっていた私。

月曜朝一でそのフォローをしたわけです。

そしたら、

「あ、うん」

とお局さまからの軽めなお返事。

あれ?  なんかおかしいぞ、もしかして怒ってるのか?  いや、わたし言い方間違えたか?  なんだなんだ?

頭の中で、ちょっとしたザワメキがおきました。

しかし、粗相はしたけれど、ご迷惑はおかけしたけれど、割と些細だったはずです。

少なくとも、機嫌に影響するほどではない。

とすると、なんだ?

いやー、しばし考えたけれども、解がみつかりません。

中学校の時に習った一次方程式も二次方程式も、公式に当てはめたら解は1つに絞り出せたけれども、人間関係はそう簡単には解けません。

と思ったら、なんだか私、めんどくさくなりました。

だって、答えが見つからないのだもの。

見つかったとしてもそれが正解かはわからない。

なので、放棄しました。

放置しました。

もしかしたら、お家で喧嘩をして出てきたかもしれないし、

電車で足踏まれたからかもしれないし、

給料日前でお金がつきそうで食べたいランチをコンビニで買えなかったからかもしれないし。

こちらにはその事情は分かりません。

 

そしたら、いつのまにかそのお局さま。

機嫌よくなっていました!!

 

いやー、こうゆうことって多いんです。

あの人の機嫌の悪さ、あの人からのラインの返信、自分のせいなのでは、と思ってしまうことって。

でもだいたいが自分とは関係ないところに理由があったりする。

たとえ、自分に理由があったとしても、それはそれでそうゆう付き合い方をするしかないし、自分では変えられないこと。

だから、そこに介入しすぎず、自分の時間を、もっというと自分の命をまっとうすることだけにエネルギーを注いでいれば、

それが一番幸せに繋がるんだろうな、と思ったわけです。

 

ほんと、いつもフラットに、そしてすこし距離を置いて、らくーに生きていくに限りますね。

よし、それではゆるっとまた仕事してきますかね!

 

 

 

33歳のお悩み

季節がかわったこともあるけれど、私には今、切実な悩みがある。

それは、何を着たらいいか分からない問題である。

春になってからほとんど買い物をしていないという理由もあるのだけれど、どうやら、私は確実に年をとっていて、鏡に映る自分は日に日に、みるみる老けていくことが原因らしい。

だからか、どんな服を着ても似合っていないように思えてしまう。

あぁ、たしか25〜6のころにも、こんなことがあったっけ。

大学時代に着ていた服は、どれもまだ着れる状態で、かつまだ飽きていない。

むしろ気に入っているものばかりだった。

なので社会人になっても、なんの疑問も持たずに着続けていたのだけれど、なんだか、言葉ではどうにも言い表せないモヤがもくもくと発生して、何かが違う、何かが違う、とどうも釈然としない。

あらためて鏡に映った自分を見ると、洋服と顔が、まったく明後日の方向を向いているような、調和されていないような違和感がある。

どうにもこうにもしょうがないので、それまでとは雰囲気の違う洋服を、少し大人なお店で買ったことを覚えている。

まさしく、それ。

まったく同じことが今、また起こっている。

理由は、まぎれもなく、わたしが33歳だからなのだ。

33歳になってしまったからに、違いない。

この違和感をもちながら、今までの服を着ることはもうできますまい。

あぁ、次のステージがきてしまった。

カジュアルが好き、だとかもう言ってられないのだな、うん、よくわかりました。

年相応、というのはやはり必要で、その流れに自らを合わせるしかありません。

はい。

ということで、そのお悩み。

なるべく早く解消するべく、新しい洋服たちを向かい入れたいと思います。

年齢に寄りそう、ってこうゆうことなんですかね。

寂しいような、楽しいような。

いや、これって楽しいことなんだ。

洋服との新しい出会いの季節がきたようです。

マニュアル依存

昔から、絵がヘタで、作文が苦手で、とにかくナニカをゼロからイチにすることが苦手だった。

自由が苦手というか。

はい、自由に絵を描いてください。

自由に文を書いてください。

こう言われると、とたんに不安になる。

教科書は?

ガイドラインは?

何が正しくて、どんなものを書けば先生は褒めてくれるの?

それが分からなくて、見放されたような不安と、丸腰で素っ裸になった自分を評価されるような恥ずかしさとがいつもあった。

だから、自分には向いていない、と決めて立ち入らないようにそこに鍵をかけていた。

一度鍵をかけてしまうと、なかなかそれは解かれることはなくて、わたし苦手なんで、と一言放って逃げることになる。

そうしていると、苦手は苦手なままで。

それは押入れに無理やり詰め込んだ荷物は、いつまでたっても詰め込まれたままなのと同じで。

わたしはいつまでたっても、まったくもって自由な発想をもつことができないでいる。

大人になったいまでもそれは変わらなくて、仕事でもなんでも、決められていること、今までどおりのことはできる。

けれど、どこかを変える、変えよう、と思うと及び腰になってしまう。

これを言ったら、筋違いって笑われるかな、とかありもしないことを考えては、また「いつもの通り」をやり続ける。

けれど、これでいいのだろうか、と思うようになった。

わたしはこのまま、マニュアル通り、教科書を片手に生きていていいのだろうか、と。

先輩の背中を追いかけるだけで、自分の道を作り出せていないのではないか、と。

ひいては、会社が敷いてくれるレールを歩くだけでいいのだろうか、と。

一度も転職することなく、12年。

一度も方向転換をしていない。

それはいいことでも、悪いことでもないけれど。

 

自分の道をちゃんとその手で作って、自分が楽しいと思える道を見つけていくことって、簡単なようでなかなか難しいということが、最近になってよく分かる。

だから、転職をして方向転換したひと、主婦になると決めた人、フリーランスで働く人、自分のお店を持っている人、経営している人、ってすごいなぁと心から思う。

ずっと、絵が自由に美しくかける人がうらやましくて、

文章を自由におもしろくかける人が羨ましかった。

それと同じように、自分の道をしっかり決めて、行動している人が今すごく羨ましい。

自分にその力がないのは分かっていても、なんかいいなぁって漠然と羨ましい。

自由に生きるって、マニュアルや教科書という世間体ではなく、自分に正直になれる、本当に自立した人だけができることなのかもしれないね。

 

 

 

新社会人に告ぐ

4月になると、電車やホームには真新しいスーツを着った若者たちが、ひとかたまりになっていて、そこだけピンク色のような黄色のような、とにかく明るい空気があって、その他のひとたちとは明らかに違って楽しそうしている。

そんな光景をみるたびに、12年前の新入社員だった自分を思い出す。

あー、私もあんなふうに浮き足立ってたのかなー、あんなに風に仲間とキラキラしてたんだったっけなー、とか漠然と思う。

けど、まてよ。

違う、そうじゃない。

私は、あんなふうにキャーキャー言って笑ったり、つるんだりしなかった。

一緒に通勤したり、どこかで待ち合わせてお茶をしたり、してなかった。

頭の中のどこを探しても、かき分けて探しても、どうしたって見つからない。

なぜなら、私は「同期」とつるむことを異様に嫌っていたのだ。

そのときの私は、かたくなに、そしてあからさまに同期との付き合いを避けていた。

まるで、犬嫌いな人が、犬に好かれて、逃げ回っているかのように。

研修が定時の17時15分きっかりに終わった途端、誰かが言い出す。

「今日も、だんらん(近くの居酒屋の名前)ねー!」

「いこー!」

60人超いる同期が、思い思いに研修会場を出て、そのまま居酒屋に直行する。

ほぼ毎日、だ。

私は家が遠いことを理由に、そろそろと誰にも気づかれないように帰ろうとする。

でも、決まって気づかれてしまう。

「あれー! 帰っちゃうのー? いこうよー!」

人懐っこい同期は、何度断ってもめげずに何度も何度も誘ってくれる。

気持ちは嬉しい。

けれど、私は同期に味方はいらないのだ。

私の味方は、中学や高校や大学の友達だけであって、それだけで大丈夫。

それだけでお腹がいっぱい。

だから、いらない。

仲良くしたいなんて、これっぽっちも思わない。

社会人になってから、友達なんて作れるわけがないと思っていたし、作ろうとも思わなかった。

そもそも私は、大人数が苦手なのだ。

仕事だって、したくてしているわけではない。

付き合っている彼氏と3年くらいしたらきっと結婚するし、そしたら辞めるし。

だから、仲良くする必要なんてない、なんて思っていた。

なのに、気づいたら、もう12年経ってしまった。

3年したら辞めると言っていた私は、その4倍も長くこの会社にいる。

想定外。

本当に想定外、としかいいようがない。

それに、仲間なんて作らない?

そんなこと、今は口が裂けても言えない。

「今日さー、課長がまたくだらないことで怒ってさー、ほんとやんなるわー」

「隣の先輩が、朝っぱらから自席で爪切りしてるんだけど、ふっと横見たら今度は耳かきしてんの! 家でしろよだよなー?(笑)」

毎日、ランチで、ラインで、イライラしたこと、面白かったこと、悔しかったこと、どんなに小さなことでも共有して、そうしていることで平静を保っていられている。

こんな風に仕事を続けてこれるなんて、思ってなかった。

たぶん、この仲間がいなかったら、私の愚痴を聞いてくれて笑ってくれる、この仲間がいなかったらきっと、私はとっくのとうに会社を辞めていた。

辞めたい、辞めよう、と思うことがなかったわけではない。

いや、むしろたくさんあった。

けれど、私はこの仲間との交流がなくなってしまうのが、怖くて、手放したくなくて、辞められなかった。

そんな仲間ができるなんて、思ってもみなかった。

もちろん、今でも辞めたいと思うことはある。

というか、いまも現在進行形で辞めたいと思っている。

けれども、いつも頭の隅にいて、手を離さないでいてくれているのは、この会社の同期であり後輩であり、先輩だ。

だから、駅やホームでキャーキャーしている新入社員を見ていて、思うのだ。

「細く、長く、その仲間を大事にしてほしいな」と。

たとえ会社を辞めたとしても、勤務地が離れ離れになったとしても、また会えば笑いあえるような仲間を作って欲しい。

そう思う。

これから、いろんなことがあるだろう。

辛いこと、悔しいこと、自分の無力さにつまずきそうになることなんて、たくさんあるはずだ。

けれど、そこで支えてくれる、そして支えたいと思える仲間に、そして時にライバルと思える仲間を大切にしてれば、きっと、きっと社会人生活はいいものになるだろう。

がんばれ、新社会人!

そして、がんばろう、わたしたち中堅社員!笑

 

仙台にいったときの食べたものの話

こないだ、仙台に旅行に行ったときのこと。

旅行といえば食事、なわたしなので、当然限られた2日でなにを食べるのかというのは、どんな洋服を着るかより、どんな観光名所をめぐるかより大事な、一大イベントなのです。

なので旅行前の計画では、なにを食べるのか、が焦点になりました。

仙台といえば、牛タン。

これは誰もが知っていることです。

当たり前のように組み込まれます。

それから、牡蠣。

これも海辺だということ、牡蠣で有名な松島に行くということから、これも必然です。

それからそれから、ずんだも食べたい。

ずんだ、というのは枝豆をすりつぶした、あんこが大豆だとしたら、その枝豆版です。

いやー、当然食べるよね。

ということで、こちらもランクイン。

まあ、こちらはどちらかというと、食べられなかったらお土産だねー、なんて話してました。

(お土産は、かの有名な「萩の月」が我がもの顔でお土産リストに名を連ねますから、ここでも自分のなかで熾烈な争いが発生することがかるーく想像できます)

 

そして、仙台入りしてからというもの、順調に、牛タン、牡蠣、をたいらげます。

本当に美味しかった。

牛タンは、肉厚で、なのにすぐに口の中でなくなってしまうし、タレもご飯がすすむあの味で、もうたまりません。

牡蠣は、焼いたものと、ごはんに混ぜたものと、お吸い物のなかにはいったものをいただきましたが、どれも海の不思議を感じさせるくらい美味しくて。

潮って、海って、ありがたい、と思いました。

いやー、どれもほんとうに美味しい。

そして、すこし優先順位がさがっていた、ずんだ、です。

こちら、はまりました。

みごとにはまってしまいました。

ずんだ餅、お餅とほどよく甘く、枝豆の粒々を感じさせるずんだが、絶妙です。

これに味をしめたわたしは、そのあと、ずんだたい焼き、ずんだシェイク、と続きます。

だれだ、お土産でもいいねー、なんて言ってたのは!

ずんだに取り憑かれたように食べまくりました。

もしかしたら、今回の旅でいちばん、ずんだの満足度が高かったかもしれない。

もちろん、お土産としても買って帰りましたし、もっというと新幹線のなかでも、ずんだ

たべました。

もうここまでくると、ずんだおばけです。

あー、ずんだ、ずんだ、ずんだ、

また食べたいなぁ。

 

(おまけ)

f:id:tezzy:20180320064734j:image

牛タン。並びました。やっぱり人気です。

 

f:id:tezzy:20180320064823j:image

牡蠣定食。牡蠣ごはんが大好き。

これだけ、ずんだについて語ったのに、ずんだを前にすると食べることに夢中で、写真が一枚もありません。

ずーん、だ。

 

 

ケチだよね、といわれて気づいたこと。

「前から思ってたんだけど、ケチだよねー。自分にはたんまりお金使うくせに」

今日、いきなりそう言われた。

うわ、と思った。だってそれはどれも本当のことだから。

そう、私はケチだ。

言い換えると、人にモノをあげるという意識が、低い。

だから、お誕生日プレゼントも、本当に大切な人にしかあげないし、親にプレゼントすることも本当に稀だ。

私は本物のケチなのだ。

そのくせ、料理教室だの、ヨガだの、ライティングだの、自分の興味のあることには躊躇なくお金を使う。

だから、(これを言うと嫌われそうだから言いたくないけど)人に対して使うお金を惜しむという人として最低なケチなのだ。

けれど、恥ずかしながら30を超えても、自分がケチであるということを自覚するタイミングがなかった。

それを指摘されたこともなかった。

でも、気づいてしまった。

いや、気づかされてしまった。

それも思いがけないタイミングで。

 

花粉症がきつくなってきた私は、同僚に勧められて「花粉が水にかわるマスク」なるものを購入した。

しかし、1日このマスクで過ごしても、一向に効き目がない。

どうしたものか。

3枚で1000円もしたのだ。

普通のマスクだったら、だいたい一枚あたり20円あたりだろうから、実に10倍以上もする高価なものなのだ。

効果がないというのはなんということか。

そんなことを思い、勧めてくれた同僚にその無能さについて語り、ダサいネタとして笑いをとった。

「じゃあさ、それ必要ないなら、あいつに売ったら?」

と同僚が言った。

あいつ、とは私たちの同期の女子みたいな男子。

私たちはよく三人で女子会を開く。

化粧品や下着などの女性特有な話題にも、違和感なくついてくるやつ。

いや、もしかしたら私たちよりも女性なのかもしれない。

日焼けを予防するためにビタミン剤を飲んでいたり、旅行のときには納豆菌を飲んで胃腸をサポートしたり、洋服のブランドにも詳しくて、とにかく今時のOL感が半端ない。

そして新しいモノがすきでミーハー。

ドローンが発売されればすぐ買うし、アイポンも新商品がでればそのたびに我先にと手に入れる。

そんなあいつなら、飛びつくかもしれない!

そう思った。売ってやろう、と。

普通なら、「私は必要ないし、あげよう」と思うのかもしれない。

けれど私は、「売る」という選択肢か持ち合わせず、

「ねぇねぇ、これ2枚で600円で買わない?」と持ちかけたのだ。

なんて浅はかなのだろう!

彼は、「花粉を水にかえる」ということ自体には興味津々ではあったものの、不信感をあらわにした。

「でもさ、それ怪しくなーい?」

まるで女子高生がいうように、語尾をこれでもかと上げて不審をこちらにぶつけてくる。

「それにさ、高いよねー? というか売るとかって……(ギロっとこちらを見る)。前から思ってたけど、ケチだよねー。自分にはたんまりお金使うくせに」

うう。

言葉がでなかった。

そうですよ悪かったね、と言いながら、その場を去ろうかと思うほど、いらっとしてしまった。

だって、それは本当のことだったから。

でも、待てよ。

こんな風に正直に、思ったことを言ってくれる友達が、どれだけいるのだろうか、と。

30を超えると、どんなに仲のいい女友達だって、多少なりとも気を遣い、遣われて、関係を続けることになる。

結婚しているか、子供がいるか、仕事をしているか、していないか。

それぞれの環境が少しずつ違うことで、今までわかる部分が多かった友達だって、だんだんとわからない部分が増えていく。

だから、自然とデリケートなところには触れないように触れないように、なっていく。

これはしょうがないことなのかもしれない。

けれど、寂しいな、と時々思う。

言いたいことを言えない。

言われたいのに言ってくれない。

そうゆう、あやうい綱渡りのような関係になっているのなんて、本望ではない。

前のように、学生のときのように、思ったことを思ったまま言って、笑いあって、ダメ出しするときはふざけて笑いに変えて、それで一緒に成長していけたらどんなにいいか。

しかし、私たちはもう大人だ。

相手との境界線を、じっと見つめながら、それを超えないよう超えないようにすることが暗黙の「大人の流儀」だ。

それで関係をうまく保とうとしているのだ。

もちろん、今でも正直に思ったことを言い、言われる関係の友達ももちろんいる。

そんな友達は、本当に大事な友達だ、と思う。

だから、もしかして。

もしかして、同期のその女子のような男子は、大事にすべき友達なのかもしれない。

そう思った。

いや、間違いなく、大事にすべき友人だ。

家族以外で、思ったことを直球でぶつけてくれる人というのはなかなかいないのだから。

そんな友人は、ありがたい存在なのだ。

はぁ、まさかケチと言われて、そう言った相手のことを大事な存在だと思うとは思わなかった。

(いやー、これ書いていくうちに、どんどん書きたい内容が変わっていって、びっくりしたー)

 面白いですね。

表面に起きた出来事をそっくりそのまま受け取るだけでなく、そこからいろいろと思いを巡らしてみるのも楽しいものですね。

そんな水曜日。

さ、明日と明後日が終われば、またお休みです。

ゆるーり、がんばっていきましょうかね。

 

 

 

先に言われるのと、言われないのでは、大きな違いがあるんです

「はい、ちょっと冷たいですよー」

冷たいくらいなら、大丈夫。

いいですいいです、とっととやってください。

これは、ついこないだ子宮頸がんの精密検査「コルポ診」と「組織診」をやったときのこと。

 

いやー、自分がまさか、健康診断で引っかかるなんて思ってもみなかった。

しかも、「まぁきっと大丈夫だろうけど念のため受けとこう」くらいの軽い気持ちで、言ってしまえば安心料を支払うくらいの気持ちで受けた「子宮頸がん」の検査だった。

それが12月の終わり。

それから1ヶ月くらい経って、結果は、仕事かえりに家の郵便受けで受け取って、そのままリビングに入って、手を洗ってせんべいか何かを頬張りながら確認したと思う。

それは郵便ポストに雑多に入っているチラシを流し目でみるのと同じくらいの確認の仕方で、まったく警戒してなかった。

けれど、そこにあったのは「要精密検査」の字。

あまりにも思いがけなくって、おもわず「えっ……」と絶句してしまった。

だって、何もない。

痛くないし、血がでてきたわけでもないし、気分も悪くない。

なんなら生理も、予定日とズレることなくしっかりきている。

全然そんな前ぶりがない。

でも、そこにその文字があるのは紛れのない事実であって、まるで自分ごとではないような気持ちがして、それからいきなり全身から力が抜けて、がっくりした。

まだ癌だってきまったわけではないのに、気持ちはすっかり落ち込んでしまって、何度も何度もその文字を読み返した。

あぁ、こんなにもダメージを受けるものなのか。

はぁ、我ながら情けない。

でも、まだわからないのだから、と自分で自分を励まして、すぐにネットで検査の予約をした。

婦人科にいくのは、久しぶりだ。

初めて行くクリニックだったけれど、ネットの情報と少しも違わず、とても綺麗で、おしゃれで、そして多くの女性で賑わっていた。

受付の女の人も、看護師さんも、お医者さんもとても上品で、優しくて、緊張を温かいなにかでほぐしてくれた。

それでも、やっぱり婦人科特有の診察台で足を広げてお見せすることには、どうしても抵抗があった。

もう、このひとたちと顔を合わすことはない、と思い込んで、けれどその1分後には目を見合わせて話をしなければならないのには、フフっと笑ってしまうような小っ恥ずかしい気持ちになった。

そしてこの検査で、まだ子宮頸がんではなく、その前段階の異形細胞がある、ということがわかった。

この異形細胞は、ほとんどが自然治癒で消えるらしいのだけれど、念のため総合病院でより詳しい検査をするように、と言い渡された。

詳しい検査をする理由はなんだかよくわからないけど、でも、ここは受けておこうとすぐに大学病院に行った。

そこでうけたのが、「コルポ診」と「組織診」。

その大学病院では、やけに淡々としたお医者さんで、検査についてあまり十分な説明がないまま、診察台Bに乗ってください、と言われた。

言われるがままに、診察台Bのカーテンの中に入り、タイツを脱ぎ、下着を脱ぎ、診察台に乗った。

「はい、ちょっと冷たいですよー」

男のお医者さんがそう言う。

2度目ともなると、診察台で足を開くことに抵抗がなくなったのだろうか、相手が淡々としているからだろうか、はいはいそんなことどうでもいいですよー早くやっちゃってください、と半ばなげやりな気分になる。

けれどその後、チクチクしたり、チョキンという音が聞こえたりして、気が気でない。

思わずイタっと声がでてしまう。

え、聞いてないんですけど。

冷たい、しか。

少し痛いですよー、とか、ちょっと我慢してくださいねー、とか言われてないんですけど!

普通いうでしょ。

歯医者さんでも、そんなに痛くないときだって「少し痛くなりますよーがんばってくださいねー」って励ましてくれるでしょ!

なのに、そんな歯医者と比べ物にならないくらい痛いのに、全然そんなの聞いてないんですけど!

内臓を切られる(正確には子宮細胞)っていうのは、その痛みのために、たとえ顔のパーツがすべて中心に寄ってしまったとしても耐えるしかできないような、そしてそれと同時に大切なものをえぐられたような、なにかに侵害されたような屈辱的な気持ちになる。

そんな私に、まるで街ですれ違った時に肩がぶつかったかくらいのレベルで「大丈夫ですかー」と全然心配してない声で、中身スカスカの言葉をかけられる。

こうゆうときって、大丈夫じゃないけど大丈夫って言うしか選択肢がない。

そんな心地がいいとは言えない状況から、そそくさと逃げようと思い、下着を履いて、タイツに片足をつっこんだ時だった。

急に気持ち悪くなったのだ。

気持ち悪くて、コホコホと弱々しい咳がでる。

あれ、おかしいな、と思ったときには立ち上がれなくなってしまった。

あれ、これはなんだ。

手が痺れて、足が痺れていく。

「すみません、気持ちが悪いので、少しここで休んでいいですか」

慌ててお医者さんと看護師さんが3人かけつけて、いつのまにか車椅子にのせられて、ベッドに横にならせてもらった。

私は、今まで一度も貧血になったことはないし、倒れたこともない。

あぁ、これか。

これが貧血なのか。

いまだ子宮も痛い。

体のどの部分も、ほんのちょっとも力が入らなくて、痛くて、歩けなくて、なんだか自分がとてつもなく非力で、脆く感じる。

ちょっとでも押されたら、もう二度と起き上がれなくなるのではないか、と思うくらい力がない。

人間って、脆いんだなー。

片足タイツ、片足生足の私は、しばらく横になりながらぼんやりそんなふうに思っていたら、「すこし落ち着いたかなー?」と言いながら看護師さんがやってきた。

この検査でね、緊張してて、痛かったことでさらに緊張して、それで終わった途端に力が抜けてこうなっちゃう人って多いんですよー。

だから心配しないで大丈夫ですよー。

 って言ったのです。

それも聞いてないよ、痛いってことも、倒れることもあるってことも、聞いてない!

なんでしょうね、この後出しじゃんけんされたときのような気持ちは。

なんでしょうね、この敗北感は。

やっぱりね、想像されるであろうことは、事前に言っていたほうがいい。

絶対、そのほうがいい。

だって、合意が取れるからね。

そうならなかったら、それはそれでラッキーって思えるからね。

よかった、って思えるからね。

だから、何ごとも、考えられること(メリットもデメリットも)先に伝えたほうが相手のためにはいい、と思うのです。

それがサービスだと思うのです。

それが病院であっても、そのスタンスは大事だと思うのです。

伝えることは大事。

ただ、伝え方はもっと大事。

そんなことを思った「コルポ診」「組織診」。

これから受けるひとは、少しだけチクっとするし、私みたいに気持ち悪くなってすこし安静にする必要がでることもあるよってことを覚悟をしていたほうがいいかもしれません。