読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

てじーの日記

ていねいなくらしのために、ゆらゆら書きます。

男女の友情って成立しますか?

「友だちとしてしか見れない。ごめん……」

 

私は、大事な、大事な友だちを一人失いました。

彼は、私のよき理解者でした。

私が忘れっぽいこと。すぐ心変わりすること、曲がったことが嫌いなこと。辛いものが少し苦手なこと。そして、いつも恋愛がうまくいかないこと。

本当によく分かってくれていました。

だから、私は彼には安心して、どんなことでも話せたのです。

私も彼のことは分かっていたと思っています。

 

だからもし、私たちが同性だったら違ったのかな、と思うのです。

私たちは、友だちとしてとてもいい関係でした。

なのに、彼が男で、私が女だから。

だから……。

最初は、私の「好き」は、友人としての「好き」だけでした。

でも、いつの間にかそこに異性としての「好き」が入り混じってしまっていたのです。

水っぽい2つの絵の具が、同じパレットのうえで自然と少しずつ少しずつ交わっていくように。

私にはそれは止められませんでした。

そして、いつの間にか、異性としての「好き」が友人としての「好き」を吸収してしまっていました。

異性としての「好き」の色が勝ってしまったのです。

絶対にそれだけは避けたかったのに。

気を付けていたのに。

だって、関係を壊したくなかったから。

ずっとこのままでいたかったから。

でも、それはできなかったのです。

 

教えてください、男女の友情って本当に成立するんですか?

 

※実話ではありません。という、気持ちになったことがあります、というお話。書いていて、ポエムかよ、と自分につっこみながらも、自己陶酔型で書いてみました。あぁ、気持ち悪い。笑

甘くてふわふわで幸せでした

「どう? 美味しい?」

「ふ……」

 

日頃の生活で、「ふ」ってあまり出てこないですよね。「え」とか「あ」とか「わ」とかは出てきても、「ふ」って私は出てこないんです。どうやら本当に、本当に、心から美味しいときにでてくるのは「ふ」、ということが分かりました。

 

これは、人生で一番おいしいフレンチトーストを食べたときにでた一文字。これは、単語でもなんでもない、ただの息に「ふ」という音がついただけのなんの意味ももたないものですけれど、一文字で表現できる言葉って面白いですよね。

「と」といえば、戸棚の戸。

「は」といえば、歯でもあるし、イントネーション次第ではいけすかない奴に喧嘩を売る言葉でもある。

「か」は課もあれば蚊もある。

 

こう考えていくと、一文字で言葉を成り立たせようとしたことってそれ自体がすごくないですか?  だって、他の意味に取られるリスクがあるじゃないですか。それをいったら、2文字だって3文字だって同じですけど。けれど、たった1文字で単語にする勇気がすごいと思うんです。たった1字ですよ? 男気を感じませんか?  短すぎるからと、なんとなく長くしておきたい気持ちにかられなかったのでしょうか。私だったら、1文字は少し不安だ。いや、すごく不安だ。せめて3文字以上にしちゃうだろうなって思うんです。

アルファベット1文字で表現できる単語ってあるのでしょうか。ないような、気がします。他のスペイン語、フランス語、イタリア語、などヨーロッパのほうってどうなんでしょうね。なんとくなんですけど、ないような気がしてなりません。(というか、ないと言ってくれ)

けれど、中国語や韓国語はたぶん一文字の単語があるでしょう。日本語のこの一文字の言葉というのは、アジア圏の仲間である証拠のように思えてきました。(本当かどうかはわかりませんけど)

 

言葉の語源とか、仕組みとか、まったく勉強したことないですけど、1つの単語がどのように成り立っているのかと思いを馳せてみるのも面白いかも。

 

※ただのつぶやきですみません。

 

フレンチトーストファクトリー  @秋葉原

f:id:tezzy:20170321181053j:image

f:id:tezzy:20170321181138j:image

 

こたつの下は、コミュニケーションの場

今は、家族がバラバラに暮らしているので、こんなことも少なくなってしまったのだけれど、今思えばとても好きな瞬間だったなぁ、と思う。

 

それは、こたつでの団欒。

 

家族4人でこたつに入っていることが好きだった。父は新聞読んでるし、母はみかん食べてるし、兄は寝転がっているし、私は……なにしてたかな。とにかく、みんな思い思いに過ごしているその瞬間が好きだった。

実家にいるときは、それが日常すぎて、当たり前で、何も感じることはなかった。けれど、4人揃ってこたつに入っているとそれだけでホッとしていたように思う。あれは「幸せなひと時」の何ものでもなかったのだな、と今さら気づく。

 

振返ってみると、大事だったなぁと思う瞬間ってある。

 

その、こたつでの話。

私たち家族は、こたつの中でだれかの靴下を脱がすことが横行していた。

「だれよー! お母さんの靴下脱がしたのはー!」

いつだったか始まった。

いつも反抗ばかりしていた、私にとっては怖い怖い、兄の仕業だった。

いつも大きなこと言ってつっぱっていても、甘えたいときもあるんだよね。

この「靴下脱がせ」は、だいたい兄から母、母から私、私から父という流れだった。

別に決めたわけでもなんでもない。でも、なぜかそうだった。

それで、みんなで笑い合う。

 

なんでもないこと。だけど、今こうして書いていると、胸にグっとくる。

大きな事件なわけでも、別に面白いことでも、なんでもないのに。

でも、そうゆうのが幸せっていうんだな。

そうゆう思い出があることが、なんだか嬉しい。

 

何でもないようなことが幸せだったと思う。

 

うん、本当にその通りだ。

その何でもないこと、を大事にしようと思うのに、手からこぼれ落ちてしまう。

 

どうでもいいですが、

カフェの隣にいる、韓国人が韓国語でもう1時間ちかく電話で話しているのだけれど、しきりに「クサナギ」って連呼している。

何はなしているのかなぁ。

 

なんでもない幸せ、ってなんですか?

 

最近きづいてしまったこと

ずっと私は、私と一緒にここまで生きてきたのに、やっとここ1~2年で気づいたことがあります。

それは、「短気」だということ。それもかなりの。

なぜ今まで気づかなかったのだろう。

ショックです。実にショックなのです。今ごろ気づくなんて。

 

グッドポイントだったら、きっと人に褒めて頂いたりして気づきやすいんだとおもうんです。

髪きれいだね。いい声してるね。優しいよね。とか。

言っているほうも、相手が喜んでくれたら嬉しいですものね。そりゃ言いたくなると思います。

でも、デブだね、ブスだね、とは誰も言いませんよね。

それと一緒で、「あなたって短気よね~」だなんて言ってくれません。

私も、大好きな友だちにわざわざ「ねぇねぇ、短気だね」なんて言いません。

嫌われます。

明日から無視されます。

 

そう考えると、自分の短所を気づくのって難しいですよね。

自分で気づくか、もしくは家族に指摘してもらうくらいしいかないような気がします。

たまに、良心的な友だちは買い物している時とかに「その服似合ってないよ」って言ってくれたりしますけど。

そうゆうのってとってもありがたい。

あぁ、友よ、私の短所をズバズバ言っておくんなまし! とすら思えてきました。

Mかよ。

 

自分が短気だと気づいてからは、それはそれは過ごしやすくなりました。

自分の行動に、一言端的な言葉で説明がつくようになったからかもしれません。

 

今日も、こんなことがありました。

「これ、どうなってる?」

「○○という感じで進んでいます」

 「じゃあこうしてね。そうしないと……」

 

この「そうしないと……」以降が長い! 

いやー、終わらない!

もうわかったよ。同じこと何回も言わなくても分かってるよ。

むしろ、私もそう思っていたんだよ。

というので、もうイライライライラしていました。

心の中では、かなりの速めの地団駄をふんでいました。

 

前だったら、あーイライラしてしまったな。たぶん態度に出ちゃったな、申し訳ない。

って思っていたところなのですが、今回は違いました。

だって、私短気だもん、と。

あー楽ちん。

 

でもなんだか、ただ単に、意気地が悪くなっていっているだけのような気がしないでもないけど。

ま、いっか!

こうやって自己認識をしていくと、生きやすくなっていくのかもしれません。

どうやら、今はやりの「嫌われる勇気」、私にはすでに備わっているようです。

過去と向き合うこと、そして今を生きること

「言葉を大事にしたい」という思いから文章を書く勉強を始めました。

 

私自身、ずっと言葉を大事にできていないと思っていたのです。

本当はずっと前から、それに気づいていました。

けれど、見て見ぬふりをしていました。

なにか思いついたら、すぐに言葉にしてしまう。

頭と言葉が直結しすぎていました。

友だちとの会話では、誰よりも先に笑わせられるようなことを言いたいがばかりに、前のめりになって話をしてしまう。

瞬発的に言葉を発することが習慣になっていました。

 

だからか、人から「軽い」と言れたり、「本当に思っているのか」と言われることが多かったのです。

それが、少しだけコンプレックスでした。

母親から「言葉は消しゴムでは消せないからね、気をつけなさい」と何度も言われて育ってきました。

それなのに、私はそれをしっかり理解することなく、言葉を軽く扱ってきていました。

 

言葉を大事にしよう、とした途端、自然と言葉が出てこなくなりました。

人と話していても、言葉が出てこない。

怖くなったのです。

この言葉は、私の口から放たれた途端、もうそれは私のものではなくなり、相手のものになってしまう。

相手のフィルターを通して理解されてしまう。

怖い。

 

そんな時、文章を書くことで、自分の考えていることを整理できるようになってきました。

それは同時に、自分と向きあうことでもあります。

書くというのは、過去の自分と向き合うことになるのです。

あぁ、あの時、こう考えていて、こうしたかったんだな~、とか。

あの時の経験がいまだに自分の心の中には残っていて、消化できていなかったんだな、とか。

 

そして、その過去を見つめていると、だんだんと「これからどうしたいか」にも目が行くようになりました。

自然と自分の心の底の願望をしっかりと受け止められるようになってきたのです。

 

だからどうだ、というのはありません。

他の人からみたら、こうして文章を書いていること自体は、ただの自己満足にしか見えないと思います。

はい、私もそう思います。

けれど、こうして文字にしていくことで、何かが生まれるのは確かなのです。

 

何を書こう、何か書きたい。でも何について? 

考えるだけで、実は苦しい。

でも書かないと、私は今、前に進めなくなっています。

言葉は、とてもすごい力を持っています。

これからは、大事に大事にしていきたいと思います。

 

 

趣味の遍歴①(社会人編)

「それでは、自己紹介をお願いします。名前、所属、趣味、一言を言ってください」

名前、よし。

所属、よし。

趣味、……うーん。何言おう。

 

私はいつもこうだった。趣味が、ない。思いつかない。趣味って、なんだろう。

映画かな。でも、人に語れるほど見てないし、映画みたらだいたいすぐ忘れちゃうしなぁ。好きな映画なんですか、って聞かれたら困る。語れない。うん、却下。

じゃあ、散歩か? たしかに休日ゆっくり歩くことは好きだ。電車に乗らずに1時間くらいかけてあるくこともある。でも、これって趣味っていっていいのか? ただ歩くのが好きって、呼吸するのが好きって言ってるくらい当たり前のことじゃないか? そんなの堂々と「趣味」としてしまうのは、気が引ける。

 

あぁぁぁぁ、困った……。

 

私は趣味が欲しかった。自己紹介の時のためだけではない。休日をもっと充実させたかった。自分のアイデンティティを持ちたかった。趣味はヨガですとか、料理ですとか、言えちゃう人がうらやましかった。それだけで、立派な人に見えたし、キラキラして、堂々としているように見えた。今思えば、どれだけ卑屈だよ、と思うけれど、そう思ってしまっていた。

 

だから、何かと手を出しては、引っ込めるということを数年続けたのだ。

 

いつだかの正月休み。大学からの親友から連絡がきた。

「めぐ、タヒチアンダンスやってみない? 体験授業が1000円でできるよ~」

タ、タヒチアンダンス? 何それ! まったく想像つかないんですけど! なぜ急にタヒチアン? しかも正月に……。まだ、日本舞踊なら納得できた。だって気分は、もろ「日本」だから。寒い寒いお正月。それなのに、なぜ、南国タヒチ! よく分からない……。

けれど、すぐにスマホで調べてみたら、南国タヒチの肌の黒い女性が腰にワラみたいなものを巻いて踊っている写真を見つけた。

ほほぅ。これがタヒチアン……。うん、悪くないかもしれない。もしかしたら、ダイエットになるかもしれないし、もしかしたらもしかしたら、妖艶な女性になれるかもしれない。そう、私は、「女性らしさ」や「色気」を常日頃から欲しいと思っていたのだ。これはちょうどいいかもしれない!

「うん! やりたい!」

単純にも、すぐにこう返事を送っていた。

 

たしか1月8日とかそのくらいだったと思う。私たちアラサー女子2人は、池袋のタヒチアンダンス教室にいた。

トコトコトコトコトコ……早いリズムで響き渡る、太鼓の音。

その音に合わせて、腰をぐるぐる回して、前や後ろに移動する。

 

前面鏡ばりのスタジオには、カラフルでオシャレなパレオを巻いた、生き生きした女性たちが10人ほど。

先生は鏡に一番近いところで、おへそを出してこれまた「タヒチから抜け出てきました!」と言わんばかりのタヒチアンスタイル。黒いロングの髪にで、どことなく肌も黒く見えた。

鏡に一番小さく映る私たちは、もじもじして頼りなく、2人だけ異空間にいるようだった。だって、なんでもないティシャツに、受付で借りた、単色でオシャレでもなんでもないパレオを腰に巻き、ビジター臭をプンプンに放っていたのだから。

 

はい、タイリ〜!!!

 

腰を動かしながら、先生が次の腰の動きの指示を出す。タイリとは正式には、タイリタマウ。上半身は立てたまま、腰を落とし、左右に振る動きのことだ。

 

ゴキ、ゴキ、ゴキ。

 

私のなまった腰は、変な音を立てる。うわ、これ、すごいな。腰のフル稼働だ。いい運動になるかもしれない。この原始的な太鼓のリズムもなかなか心地いい。これはいいかもしれない。

 

はい、ファーラップーーー!!!!

 

先生の指示は止まらない。これは、とにかく早く腰を回し続ける。つ、ついていけない。これは初心者にはきついな。

 

でも、終わった後の爽快感たるや、素晴らしかった!  汗をかき、一曲を踊り終えた後の笑い声、そしてなにより達成感!!!  

やってみたい、これはやってみよう!  

レッスンが終わると、すぐ受付に立ち寄り、契約を済ませていた。

(誘ってくれて親友は、残念ながら脱落してしまったけれど)

 

ということで、ここから一年ほど、タヒチアンダンスにのめり込むわけなのだが、一通り踊れるようになったことと、発表会の衣装だけで5万近くかかることを理由に、辞めてしまった。

 

しかし、社会人になってからの初めての習い事。とても充実していた。お友達もできて、一緒にご飯を食べたり、振りについて語り合ったり、今までにない環境だった。

 

あぁ、習い事って、趣味っていいものだな、と改めて思えた1年間のタヒチアンライフ。ただ、なぜか、この習い事を堂々と言うのは憚られた。たぶん、自分にはタヒチアン要素が少ないと自覚していたからだろう。

 

ともあれ、趣味っていいものだなと実感した私は、次の趣味を見つける旅に出かけることとした。

 

 

 

配信の陣

めぐは、うまいよね〜。人にやってもらったり、甘えるのが。

こう、よく言われる。あれ、見抜かれていたか。そりゃそうか。

 

私は、怠け者だ。どこかサボれるところがないかと、いつも目を見張っている。サークルでもバイトでも、仕事でも、楽できて、かつちゃんとやってるように見える「しごと」を探している。もし、それが運悪く見つからなかったなら、だれかにそれとなくお願いをする。だって、私よりうまい人にやってもらったほうが誰にとっても徳でしょ、としごく自分勝手な思考をしている。やらざるを得ない状況にならないと力を出さないこんな自分と30年以上一緒に生きていると、その性格は嫌という程わかっている。だから、決めたのだ。もう逃れられない状況に追い込むことに。そう、いわば背信の陣だ。 

 

12月から始めたライティング・ゼミ。週一回2000字の記事を提出している。最初は絶対毎回出すと、鼻息が荒かった。仕事そっちのけで、次に何を書こうか探す毎日。しかし、それはずっとは続かない。なかなか書きたいことが見つからないのだ。だんだん、提出を見送る週が増えていく。あれほどやるって決めたのに、またか。いとも簡単に自分を裏切っていることが、本当に許せない。ゆったりやればいい、そうも思う。けれど、私はもっと言葉を通してなにかを人に伝えられるようになりたいのだ。暖かい気持ちになったり、明るい気持ちになったりさせることのできる文章を書きたいのだ。理由はない。ただただそう思っている。

 

軽い気持ちで受けた、プロを目指すライティングプロフェッショナルゼミに受かった。月3万の出費だ。小説家になりたいわけでもない、ライターになりたいわけでもないのに入ってもいいものか。それよりなにより、素晴らしい文章を書く、憧れの人たちについていけるだろうか。2000字でもひぃひぃ言っている私が、毎週5000字を書けるのだろうか。不安だった。

 

けれど、せっかくのチャンス。誰もが受けれるわけではないゼミ。ダメでもいい。このチャンスに乗っかってみよう。あの憧れの人たちと同じステージに立ってみたい。ただそれだけの気持ちだけれど、この気持ちを大事にして突き進んでみよう、そう決めた。

 

初めての授業は、久々に緊張してドキドキした。濃い。すごく濃い。内容も、受けている人も。とてもいい雰囲気のこのクラスにいれることが幸せだと思った。

 

とにかく書いてください。プロになるにはプロ以上にやらないと。

 

本気だ。この人たちは本気なんだ。軽い気持ちで入ってしまった自分を恥じた。私も本気で、本気になろう。

 

ということで、背水の陣として入ったプロフェッショナルゼミ。これから、配信の陣でやっていこうと思います。書いている内容も、構成もまだまだですが、これから、書いて書いて、書いていきます!

 

1日に1記事を目標とします!

まずは、質より量!!!