ぱんこの日記

ていねいなくらしのために、ゆらゆら書きます。

映画パラサイトにボディブロウのように揺さぶられた話

映画「パラサイト 半地下の家族」について、本当に何も知らなかった。

パルム・ドールで賞をとったということも、なんなら韓国映画ということさえも知らなかった。

たまたま、どうやら面白いらしい、という噂話のみ聞いだけで、

「じゃあとりあえず見てみるか」と居酒屋で「とりあえあず生」というサラリーマンのような感覚で見ること決めた。

予約を取ろうとスマホをポチポチしてみると、

残席がほとんどなく滑り込みセーフ状態で席を確保できた。

やはり人気らしい。

 

なにも映画のことを知らないくせに、なぜだかこの映画のことを勝手にコメディものだと思い込んでいた。

そしてそこだけは変な自信があった。(なんでだよ)

ただただ笑えるということをひとり期待して、なんならワクワクしながら開演を待った。

 

しかしどうだろう。

全然違う。

勝手にコメディと思っていたのは、本当に本当に勝手な思い込みだった。

見終わってみると、心にパンチをされてしばらく脳震盪のようにフラフラしているような感覚になったのだ。

見終わったあと「面白かったねー」というような薄っぺらい感想なんてすべっても口に出せない。

もっと深くて深くて、そしてどの切り口から感想を述べたらいいのか迷うほどいろんな観点が盛り込まれていた。

見終わったあと、たいていどの映画でも「おもしろかった」だの「○○の場面って△△だったね」と連れ添って見ていた人同士で感想を言い合うのが聞こえてくるのだが、

今回に限ってはその声が聞こえなかった。

そのくらいダメージを受けてしまっていて、周りの音を聞くほどの余裕が自分になかったのだろう。

こんな映画いままで見たことがあっただろうか。

見終わったあとに考えさせられたことがあっただろうか。

この映画を見たひとと語り合いたい。

格差社会について。

その相互パラサイトについて。

はたまた臭いについて。

映画を見終わってもうすでに一週間ほど経つけれど、いまだ心の震盪状態は治っていない。

ちょっと気分転換に、Netflixで全裸監督でも見るかな。(その選択どうよ)

 

 

 

 

味噌をつくっています

この世の中で本当に便利なものって、ネットがいまやダントツで一位な気がします、30代OLです。(もうOLって死語レベルですかね?)

 

さぁ、そんなネットを使って、ヨガ教室を探していました。

東京から1時間くらいのちょっとした田舎に引越して落ち着いてきたので、

運動でも始めるかというノリです。

なんだかんだとヨガを細々と続けてきていたので、

ヨガ教室を探してみることにしたのです。

 

さっそく、住んでいる町の名前で検索してみたら、

専業主婦しか通えないやうな平日真っ昼間のコースのみの教室ばかり。

うーんうーん、ちょっと足を伸ばして通える範囲でしらべてみっかー、と

検索しまくりました。

 

そしたら、車で20分ほどの古民家ヨガがヒットしました!

まさしく!これだよ、これを求めていたのだよ!

と嬉しくなり、すぐに体験→入会という流れになりました。

 

その古民家は一階がカフェ、二階がヨガなどのイベントスペースとなっています。

そして、この古民家の所有者は農業法人で、やれ餅つきだ、稲刈りだ、と魅力的なイベントを開催しているワクワクする空間です。

 

12年近く都会に住み、こころが枯れ果てて潤いを失ったこの30半ばにはうってつけ。

すぐに食いつきました。

 

そんなときに、味噌作りイベントのお知らせが舞い込んできたのです。

(やったー!)

味噌、作ってみたかったんです!

自家製味噌で味噌汁、作ってみたかったんです!!

 

ただ、ひとりじゃさみしい。

ざんねんながら、夫は仕事。

ということで、同じようにくいつきそうな友人を誘い、まんまと夫婦で参加してくれることに!

(吉祥寺からわざわざありがとうー)

 

感想は、、あっという間だったー!

楽しかったーーーー!!!!

そして、米うめー!!!!

 

↓大豆をコトコトと煮て、マッシャーで潰しています

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↓味噌作り後、定食をいただく(味噌汁は去年作ったやつ)

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もう、最高!これに尽きます!!!

 

今回つくった味噌は、友達夫婦のとうちで2セットだったので、

1つは一年後、もう1つは2年後に一緒に食べて、食べ比べをしてみる予定です!

 

そしてなんと、この友達夫婦と共同で田んぼひと区画のオーナーになっちゃいましたー!

(なんせいただいたご飯がうまいんだもの)

日頃の管理は農家さんにやってもらって、わたしたちオーナーは田植え、草取り、稲刈りをやる予定です。

 

こちらも楽しみ!

そーんな話をしていたら、農家をしていた夫の祖母が、土地を貸してくれるかも?という話が!

え、ほんと!?嬉しすぎるーー!

もし本当に貸してくれたら、じゃがいも、さつまいも、かぼちゃを育てたいなー!

(似た系統の野菜ばかりだけど。笑)

 

また続報ありましたら、書きますねー!

 

新しい自分で

さぁ、どうしようか。

いよいよ、逃げられないような気がしてきた。

 

6年前、営業職をしていた私は体力・気力ともに疲弊し、白旗を挙げた。

それは、誰のせいでもなく自分が自分を追い込んでしまった結果だった。

売上を上げなければ、成績を伸ばさなければ、そして誰よりも優秀でいなければ、とクソにもならないプライドを胸に秘めていたために、自分で自分を潰してしまった。

「もう限界です」

そう言ってしくしく涙を流す私に、当時の上司は「体力がきついのなら、仕事の配分をかえるからどうか」と問いかけた。

いや、そうじゃない。

仕事の配分を減らされたら、もっと気持ちが滅入ってしまう。

周りは頑張っているのに、自分だけ仕事を減らしてしまったら、私は頑張っていないということになってしまうのではないか。

ひいては、「みんなよりやってない」自分を自ら創出することになり、会社に居づらく恥ずかしいことになる、と。

そもそも、後輩や同期の中で抜きんでることができないのが悔しくて、とても耐えられない気持ちになっていた。

抜きんでるためには、もっと体力が必要で、そして気力も必要で、でももう頑張れないほど疲れてしまった。

そんなことを赤裸々に話すと、上司は「俺は評価している。それじゃだめなのか?」と聞いた。

口には出せなかったけれど、何度も心のなかで「それじゃダメです」とつぶやいた。

その理由はわからないけれど、ただ「それじゃダメだ」と繰り返し思っては、この営業職から退くことしか考えられなくなっていった。

でも今ならわかる。

その理由は、どうでもいいプライドによるものだった。

自分をよく見せたい、みんなから評価されたい、できると思われたい、という愚かな気持ちだった。

母には、「できなくてもいいじゃない」と言われた。

でも、できなくちゃだめなの、と思った。

そして、できなくてもいいと思えたらどんなに楽なのだろう、と涙があふれた。

上司に辞職の意を伝えると異動を提案され、そうすることにした。

その時、「この選択は逃げるということになると思うけどいいのか」と上司に何度も聞かれた。

それでもいい、とその度に答えた。

 

それから6年ほど経った今、あのとき逃げた課題がブーメランのように戻ってきてしまったな、と驚いている。

いや、驚きというより落胆といったほうが正確かもしれない。

またしても、だ。

またどうでもいいプライドが邪魔している。

 

弱い人間ほどよく吠えるというけれど、それは間違いなく私のことだ。

本当に私は何もできないくせにプライドだけは高い。

だから、そんな自分を放り投げてしまおうと思う。

そんな自分は殺す。

ちっぽけな存在だという真実を受け入れて、何もできない自分を受け入れて、仕事の中に小さな楽しみを見つけていこう。

できなくってもいい。

明日からは、そんな新たな自分で。

結婚したんだけど、ちょっと思ってたのと違った話

久しぶりの更新です。

身の回りを少し忙しくしていました。

というのもわたし、30をすぎて、しかも半ば近くに、結婚したんです。

ずっとずっと、したくてたまらかなかった結婚。

できて幸せです。

もちろんそうなんですけど、ちょっと思ってたのと違う。

もちろん楽しいんだけれど。

でも違うんです。

ここ最近はずっと、彼氏がなかなかできなくて、できてもすぐ別れていたので、私は結婚はできない人なんだと思っていました。

それでいて、未婚であることを非常に、非常に引け目に感じていて、コンプレックスですらあって、結婚している友達ともどこか距離を感じてしまっていました。

いや。本当は距離とかそんなものはなくって、ただ私が勝手に心をすこーしだけ離してしまっていただけですけど。

自分を守るために距離を作っていただけなんですけど。

でもそんなことは結婚していないときにはわからなかったです。

その時はとにかく必死で、そのステータスや心の安定を守るために必死でした。

だから、どうにか距離をとってどうにか友達とも関係性が悪い方向にいかないように、いかないように、と繊細に心を扱っていたんです。

そんな生活はどこかむなしくてつらいものでした。

だからどうにか脱したくて、早く結婚したい、なんなら誰でもいい、と思ったこともありました。

けれど、やはり自分が「この人だ」と思える人で、そしてあちら様からも「必要だ」と思ってもらえることが大事だということを身に染みて感じたのです。

そんなとき、そのとおりの人と出会ったのです。

ご縁はどこにあるか、わかりません。

本当に。

私たちの場合は、親が縁を作ってくれました。

最初、断ろうと決めていたのに、いつのまにか会うことになり、そしてお付き合いが自然に始まりました。

一緒にいて楽な人がいい、とは思ってはいたけれど現実に本当にいるのか、とどこか疑っていました。

けれど、一緒にいると楽。この言葉がぴったり。

パズルの最後のピースが、はまったときのような爽快感すらありました。

なにをするにも障害がなく、もめることもなく、するする進んでいく。

結婚も同じでした。

明日マック行く?くらいの感覚で、話が進んでいきました。

そして、一緒にすんでも、一人で生活していたときのストレスフリーが失われないのです。

正確にいうと、少しは失われているかもしれません。

けれどほとんど気にならない。

むしろ、話し相手ができて、とてもリラックスできるのです。

結婚って、もっとキラキラしていて、もっと気をつかって、もっと大変なものって思っていました。

毎日ワクワクしてて、結婚したーって気持ちの面でも劇的に変わるんだって思ってました。

けれど、私たちにはキラキラはないし、気はまったく使わないし、すごく楽。

むしろ結婚した、っていうのが通過点すぎて気づかない感じすらあります。

新大阪への新幹線で隣の人と話をしているうちに、いつの間にか名古屋を通過した、みたいな。

そんな感じです。

もっと一大事じゃなかったのかい。

もっと劇的に変わるものじゃなかったのかい。

と、思うわけです。

あまりにも、結婚をしたくて憧れていたからか、このギャップは意外でした。

思ってたのと違いすぎました。

けれど、これが結婚なんですね。

やっと世の既婚者の気持ちが分かりました。

まだまだ知らないことはいっぱい。

これから何か起こるのか、このまま平常心でいながら楽しみたいと思います。

これをするな、は返ってくる

いやー、目から鱗でした。

人になにかを禁止したら、自分もそれをできなくなるってことに、ついこないだ気づいたのです。

たとえば、会社で業務時間中に、ことあるごとにお菓子を食べている人がいるとします。

こちらからしたら、大した迷惑ではないんだけれど、なんか気になる。

だって仕事中だもん。

そんなボリボリ食べられると、気が散るわけです。

だってわたしだって食べたいもん。

ここで、「ちょっと、お菓子食べるの控えたほうがいいんじゃないですか?」

といったとします。

たったそのひとことで、そんなひとことを言ったがために、

今度は自分がふとお菓子を食べたくなっても、食べられなくなるわけです。

だって、その人にはその行為を非としたのだから。

そりゃそうです。

これは、なにもお菓子に限ったことではないし、会社に限ったことではありません。

どんなことでもそう。

家族に、ちょっとパンツでうろつくのやめてくれない?

と言ったら、自分もパンツでうろつけなくなる。(まぁ、うろつかないけど)

お風呂は寝る前に入ってよね、と言ったら、自分も疲れてそのまま布団に入ることはできなくなる。

こんな感じに、すべてがすべて、そうなっちゃうわけです。

もし、人に禁止をしたのに、それを自分もやったとしたら、それはもうただの我がままなやつでしかない。

でもでもでもでも、いままで私、これやっちゃってたんですよねー。

今更ですけど、それに気がついて。

それからは、なにかを否定しようとしたときに、はて待てよ。

これ、言ってしまったら(思ってしまったら)、自分もできなるなるよな、と思い返すようにしました。

すると、少し、前よりも穏やかにいられるようになったようです。

否定ばかりしていると、それを心の中でいつのまにか増長させてしまうこともあるのですが、

このように考えるともはや否定自体をしなくなるので、負のスパイラルに苦しむこともなくなります。

あぁ、なるほどね。

これは、なかなかいい考え方かもしれません。

 

パワーをもらえるひと

きのう、2年ぶりに大学のともだちに会いました。

彼女は三重に住んでいるので、本当に久々でした。

どんな服でくるかな、どんな髪型かな、元気かな、とたのしみにしながら、改札でわたしは待っていました。

すると、

「めぐーーー!」

と大きな声をだしながら、満面の笑みをひっさげてやってきました。

だいぶ離れているのに、すごい大きな声です。

まるでここが東京の真ん中ではなく、大学のキャンパスだったかと勘違いするほどの大きな声。

でも、そんな彼女がわたしは大好きで、変わらない笑顔を見れてうれしかった。

聞くと、離婚した、とのこと。

そんなこと全然しらなかった。

まったく気づきもしなかった。

本当に、つよくて、明るくて、前をみつづけている人なのです。

ひとにパワーをあたえられるひとだな、と思いました。

素敵です。

あ、でも、もしかしたら26歳の彼氏から、彼女もパワーをもらっているのかもしれないね。

久しぶりにあえて、嬉しかった。

ありがとう。

大人の放課後をもっと

大人になっても、仕事してても、もっと自由に好きなことしていて楽しんでいていいんだな、と思った。

ネットで、大学でたまたまゼミで一緒だった同級生を見つけたときに、そう思った。

とくべつ仲がよかったわけではない。

けれど、彼の余裕のある感じにはすごく好感をもっていた。

真面目にやっているのに、でもどこかうまく抜けていて、それが心地いい。

それは、正方形でかたどられている、というよりいつもゆるい楕円形を保っていて、それはまるでアメーバのようで、まわりのひとを取り込んでいくような、吸引力がある。

だから、いつのまにかみんな彼のことを好きになっていった。

正方形でカクカクになってしまいそうな小難しい勉強をしていても、彼はみんなの空気をリラックスできる楕円形にしてくれる。

彼にはそんな不思議なちからがあった。

だからといって、とくべつ仲がよくなることもなかった。

そんな彼は、たしか、新橋にある広告代理店のグループ会社に就職がきまった。

一度だけ、社会人になってから新橋駅の中でスっとすれ違ったことがあって、そのときもゆるく、「おっ」と彼は声を発した。

思わずわたしは笑ってしまう。

そして、わたしも「おっ」という。

久しぶりにあったにもかかわらず、そのあともそれ以上でもそれ以下でもない会話をして、別れた。

それからもう10年以上、会っていない。

話もしてないし、もちろん連絡もとっていない。

そんな彼をネットで見つけた。

ほんとうにたまたまだった。

彼は、今、働きながら、音楽活動をしていて、ついこないだのフジロックに出演したらしい。

驚いた。

そんなことができるのか。

羨ましい、と思った。

この記事をよんで、すてきな考え方をする人たちだな、と思った。

こんな風に思えたら、とても豊かな気持ちで、時間を過ごせるんだろうな、と思った。

(↓ぜひ読んでみてください)

www.cinra.net

 

そして、toconomaの曲を聞いたら、さらにすてきだと思った。

 

www.youtube.com

 

私は、ただ仕事をして、家に帰って、あっという間に終わる1日を過ごしていて、休日もダラダラ。

もっとすきなことを、大人の放課後をもっと楽しみたい。

さて、なにをしようか。

なにができるのかな。

そんなことを考えていたら、なんだかそれだけで楽しくなってきた。

ということは、きっとそれが本当にできたら、もっと……。

誰かに認められるためではなく、そんなことはどうでもよくって、自分が満足できるナニカを見つけたい。

自分が、自分で、楽しめるそんなナニカを。

それを考えながら、toconomaを聞いていたら、なんだかもうすでに大人の放課後がすこし楽しくなったような、そんな気がする。

(そう、わたしは単純なのです)