カーリング女子にハマる理由
カーリング女子が、気になってしょうがない。
平昌オリンピックが終わったのに、だ。
なのに、彼女たちの笑顔や、しぐさや、話をしている時のことを、どうにもこうにも思い出してしまう。
それは、通勤している電車の中で、仕事が終わって帰宅したあとのあったかいカーペットの上で。
そんなボーっとした頭で、無意識に「カーリング女子」と検索してしまっている。
ハッと、そんな自分に気づいて、「え、なんで?」と思った。
ほんと、なんでなんだろう。
だって私は女だし、性の対象ではないし、年下だし、カーリングという競技自体もこのオリンピックでやっとほんの少しルールが分かった程度のただの「にわか」だ。
なのに、なのに、どうしても、どーしても、気になる。
いや、可愛いのはわかる。
だってあんな甲高い声で「そだねー」とか「うん!」とか言ってるの、たまらんでしょ。
それにあの笑顔!
なにあれ。
いつも笑顔で、試合中これはもう絶体絶命みないな時だって、表情が曇るにしても、それはほんの一瞬であって、すぐに切り替えて、いつのまにかまた笑顔になってるし。
ずるい。
ずるいよ。
だってそれが、もう「可愛い」以外のなにものでもないんだもん。
あー、可愛いっていうのは、なんでこんなにも無敵なんだろう。
だって、可愛いっていうだけで、なにをしていても可愛い。
ブラシの柄の上に顎を乗せて話しているだけで可愛いし、いちごを食べているのも可愛い。
むしろ地べたに座っているだけで、可愛いのだから!
あー、もう、可愛い! 目が釘付けになってしまう!
なんなのだ、あれは!
なんなんだ!
そんなふうに思って爆発しそうになった時、「あ、もしかして」と思った。
これだけは、わかってしまいたくなかった。
認めたくなかった。
でも、分かってしまったのだからしょうがない。
これは、この答えはね、私はもはやオヤジなのかもしれないということ。
そうなのだ!
彼女たちをみて、可愛いと思い、応援し、見とれてしまい、無意識にネットで検索してしまっている、というこれは、オヤジなのだ。
これがオヤジの若い女の子を可愛いと思う感情なのか!
あぁ、と思った。
というのも、私はもう30代になりもはや「女の子」ではない。
いつのまにか「女性」になっていて、「女の子」のステージからは卒業した。
だからか、最近は20代の女の子たちと張り合うこともないし、イライラすることもないし、むしろ応援したいという気持ちも強くなってきた。
純粋に、がんばってるね、がんばってね、と思う。
そして、そんな頑張っている女の子を見ると、なんだか胸があつくなるのだ。
仕事が辛くて、なかなかうまくでいなくて、もがいている女の子を見ると、もうたまらない。
こんなに可愛い子が、頑張ってるなんて。
けれど多くは語らない。だって疎ましく思われたくないから。
だからもう少し、もう少しこうしたらいいんだよ、時間が経てばわかるよ、と心の中で精一杯応援している。
そうして私は、見えない線をひいて、性別までも(意識的には)変わってしまって、いつの間にか、「オヤジ」になっていたんだな。
どうりで、ここ最近とくに、会社の40代の先輩と気が合うわけだ。
愛おしいと思うわけだ。
私は、女の子を卒業したと同時に、いつのまにかオヤジと化していたのかもしれない。
だからか。
だからなのか!
だから、私はカーリング女子が気になって仕方ないのか!
彼女たちは、オリンピックという世界中が見守る中で、立派な戦い方をした。
負けても次の試合ではそれをひきづらず、試合の中で苦しい展開になっても、いかにしてそれを打破するか、いつでも前向きに、ひたむきに勝利への道を自ら作り、そこをひたすら歩もうとするのだ。
健気、とでも言おうか。
その健気さが、そしてその真面目さが、胸をうつ。
それも、それが「可愛い」女の子たちなのだから、その感動もひとしおだ。
あぁ、そうゆうことか。
なんだ、「女の子」から卒業すると、こうゆう心境になるのか。
カーリング女子が嫌いとか言っている人は、おそらくまだ「女の子」なのでしょう。
まだ彼女たちと張り合って、そして彼女たちが可愛いから嫉妬しているのでしょう。
いやー、もうね、「オヤジ」になってしまったほうが楽だよ。
アンチカーリング女子の人の肩をトントンと叩いて、「こっちにおいでよ、楽しいよ」と言いたい。
あ、だからといって、女を捨てるのとは違うからね。
そこんとこ間違えるなよ、私よ!