ぱんこの日記

ていねいなくらしのために、ゆらゆら書きます。

大人の「卒業」っていいものかもしれない

「大人には、テストも卒業もないからいいよねー」

いつだったか、父にこう言ったことがある。たしか高校の時だったと思う。その時は、学期ごとの中間試験や期末試験に追われていて、なんで定期的に学力を判断されて、順位までつけられて、それに苦しまなければならないのだろう、と真剣に思った。卒業だって、3年、4年、6年経ったら自動的にやってくる。それも、こちらの本意ではない。やっと心打ち解けて、いろんな思い出を作ってきたのに。どうして離れなければならないんだろう。慣れ親しんだ友だちと離れるのはどんなときでもいやだった。

父は、ちょっと考えて微笑みながらこう答えた。

「そうだね、たしかに大人になったらテストも卒業もないけどね、毎日が試験で卒業は自分で決めていかなければならないんだよ」

毎日が試験? え、どうゆうこと? うちの父は家では仕事はしなかったし、私の見える範囲では勉強をしているようには思えなかった。意味がわからない。それに、大人になってからの卒業って何? 一生同じ会社に行くんでしょ。何言ってんだかよくわからない。でも、ま、いっか。その言葉はそのままスルーした。

 

けれど、自分が社会人になってみると、この言葉が肌身を通してよく分かる。分かりたくなくても分かってしまう。1つの言動、1つの文書、1つのプロジェクト、どんな些細なこともこれらが積み重なって自分への評価につながるし、「卒業」は自分で決めていかなければならない。どのポイントまでいったら、次のステップに進むか。学校のように「はい、あなたもう次のステージですよ」というような自動的なものではない。今までの学校教育の卒業が「受動的」だとしたら、これからの卒業は「能動的」なのだ。自分で決めなければいけない。

 

社会人になってから、大きな卒業を一度経験した。それは、とても大きな決断だった。そのときは自分にとって、この卒業がいいことだったのか分からなかった。怖かった。だけど、今ならその答えが分かる。

 

***

 

今から10年前、私は今の会社に入社した。

最初の配属は「営業」。しかも、新規開拓を命じられた。まったく取引のないお客様先に行かなくてはならない。そして、最終的には商品を売ってもらい、継続的な取引をできるような関係性を構築することが求めらている。はたして、私にそんなことができるのだろうか。まったく自信がなかった。けれど、考えているだけでは商品は売れない。とにかくやってみる。それしか私には選択肢がなかった。

 

配属されてからというもの、見よう見まねで、毎日アポイントメントをとりつけるために電話をし、それが難しいときにはアポなしで飛び込みの営業をした。お客様からしたら、求めてもいないのにまったくの新参者、しかも大学生と大して変わらないような小娘がノコノコやってきて、必要としていないのに「会ってほしい」「話を聞いてほしい」と言ってくるのだから、やっかい払いをされることが当たり前。そりゃ忙しいもん。迷惑だよな、ごめんなさい。そう思いながら、毎日違うドアをノックする日々が続いた。

 

正直、辛かった。

自分の存在が認められていないような、気さえした。

でもその日々の中で、少しずつ何かが変わっていった。

最初は挨拶しかしていなかったお客様が、少しずつ心を開いてくれていろんな話をしてくれるようになった。

相談があるから、ちょっと来てくれないか、と言われることが少しずつ増えていった。

 

最初は、仕事がゼロだったのにいつのまにか、毎日少しずつの積み重ねるうちに、仕事が増えて行った。

それと同時に、仕事が楽しくて楽しくてたまらなくなった。だって、お客様と感動を分かち合えるのだから。がんばれば頑張った分だけ評価してもらえて、小さな気遣いとか小さなプラスアルファが、評価されて、頼りにしてもらえるのだから。必要としてもらえるのだから。

学校の試験とは全然違う。形式的な数字、点数での評価ではない。メール一通、電話一本、1つの商談の内容によって毎日評価されている。正解はたくさんあるだろうけど、その中でも自分らしくかつお客様にとって最適である「正解」を見つけていく。毎日が試験って、すごい楽しいじゃないか。ねぇ、お父さん、毎日試験っていいものなんだね。

 

案件ゼロのスタートから1年も経つと、ありがたいことに案件は増え続けて行った。そのおかげでほぼ毎日夜遅くまで仕事をし、週2~3回はタクシー帰りと言う時もあった。でも、自分を必要にしてくれるお客様がいるだけで、嬉しくて、お客様から感謝をされるとよりがんばろうと思える。だから、帰りが遅くても、友だちとの飲み会をキャンセルしなくてはならなかったとしても、全然苦ではなかった。

それから6年経ったくらいから、少しずつこの気持ちが変わっていった。だんだんとお客様の期待に応えようとすればするほど、自分を傷つけているような感覚になるようになった。本当は疲労がたまっていて休みたいから帰りたいけど、お客様から依頼は断れず、できるだけ早く対応したいから仕事をする。仕事の量は増える一方で、どんなに早く仕事をこなせるようになっても、帰る時間はどんどん遅くなる。自分では制御できないほど仕事に追われるようになっていく。それと同時に、お客様への丁寧な対応や、声をかけてくれてありがたいという気持ちがだんだん薄れていく。

そんな生活が続いていった。

もう限界かもしれない。いつしかそう思うようになっていた。

でも、今まで育ててくれたお客様と離れたくない。ここまで育ててくれた上司、先輩を裏切りたくない。

自分の中で、まったく正反対の気持ちがいったりきたりして、もうどうしたらいいか分からなくなった。体も頭もフリーズしてしまった。まったく動かない。簡単なメールの返事さえも打てない。会社に行って自分のパソコンの前に座っても、文字通り、何もできなくなってしまった。

 

もう、この生活からは卒業しよう。

 

そう決めた。次のステップに行く時が来たのだ。学校の「卒業」とは違って、自分で「卒業」を決めなければならないのは、辛い。自分で決めることの責任が、自分に100%ふりかかってくれる。大人になっても、誰かが決めてくれたらいいのに。誰かがそう言ってくれたらいいのに。でもそうはいかない。

会社を辞める。そう決意した。

 

その気持ちをお世話になった上司におそるおそる「辞めたい」という主旨を伝えると、意外にも、スタッフにならないかという提案をもらった。え、スタッフになれるの? 他の部署でも働いていいの? 正直、驚いた。転職するしかないと思っていたのだから。辞めたいという気持ちが沸き起こったことに対して、後ろめたい気持ちしかなかった。けれど、もしかしたらこれが日々の試験を受けてきた結果なのかもしれない、と初めて自分をほめることができた。毎日の試験、ちゃんと受け続けていてよかった。卒業を決めるのは辛かったけれど、毎日の試験を受けていたからこそこれから新たな一歩を踏み出せると思えた。

 

卒業は、悲しい。慣れ親しんだ人から離れなければならない。確かにそうだと思う。けれど新たな一歩を踏み出すためには、必要なプロセスなのかもしれない。

私は、この大きな卒業をし、新たな部署への入学をした。それから、営業の時の経験を活かして仕事ができることへの感謝をしながら働いている。転職していたら絶対に味わえなかっただろう。

そして、仕事だけではなく、自分のやりたいことをやりたいままにすることができるようになった。このライティング・ゼミへの参加もそのうちの1つ。今まで文章を書くことは苦手だったのに、何かのめぐり合わせでこうして今、文章を書いている。そのおかげで、自分がこれからどうしていきたいか、自分とは何者なのか、をよく考えるようになった。身の回りにある些細なことに疑問を持ち、考えるようなった。一気に自分の世界が開けていくような感覚になっていく。今、ライティング・ゼミで毎週試験を受け、また卒業に向かって突き進んでいる。さて、どこを卒業のポイントにしようか。それを考えているだけでわくわくする。やっぱり「卒業」はいやなものではないのかもしれない。これからは、その「卒業」をより感動的なものにしていくように、日々試験を受けていきたい。

 

※天狼院書店「ライティング・プロフェッショナル」の試験で、提出した記事です。誤字脱字ありますが、そのまま掲載します。