ぱんこの日記

ていねいなくらしのために、ゆらゆら書きます。

イラつかせる人は、大切なことを気づかせてくれるってほんと?

彼は「ふぅっ」とゆっくり一つ、ため息をついた。

これまで彼の大きな瞳を、どれだけの時間見てきただろう。

私と彼は、いつもと同じように向かい合って座っている。

周りには人がたくさんいて、けれど私たちはそんなことにかまうことなく、私たちだけの世界にいた。

まるで周りにだれもいないかのように、目と目を見合って、それはもう誰をも寄せ付けない空気を醸し出していただろう。

きっと私たちの声は聞こえている。

けれど誰ひとりとして、それを聞いていない風を装って座っている。

まるで、駅の改札でカップルがいちゃついているのを、見て見ぬふりをするかのように。

そんな風に、誰もがしれっと下を向いているけれど、耳をそばだてて聞いているのだ。

あぁ、なんてはずかしいのだろう。

そう、だって私たちは、互いにまったく分かり合えていないのだから。

大きな声で、それはフロア中に響き渡る声で、自分の意見を相手になりふりかまわずブツけている。

あぁ、もういやだ。

早くここから抜け出したい。

この人の前にいるときは、いつだって逃げ出したい気持ちにかられる。

向かいあって座っているのは、私の上司。

人の気持ちを逆なでするのがとても得意で、相手の気持ちを汲むことなんてない。

そんな上司。

イラっとさせる人とは、なるべく一瞬たりとも同じ空間にいたくない。

そう思ってしまう。

けれど、他人は自分の鏡という。

その「他人」とは、自分以外の人という意味で、それに例外はないらしい。

というと、この上司も私の鏡なのだろうか。

え、絶対違う。

そんなの信じたくない。

けれど、イラっとさせる人には、どうしてその人にイラっとするのか。

その人になんて言ってやりたいのか。

それこそが、自分に向けた言葉らしい。

というと、

「ちょっとくらいフォローしてくれてもいいじゃないか」とか、

「頭ごなしにいうんじゃねーよ」とか、

「こっちのことも理解しろよ」とか。

そうゆうことを、私は私に思っているのだろうか。

まったくもってどう解釈していいのか、わからない。

けれど、ひとつ言えるのは、自分の上司への態度が「思い上がり」そのものでしかないということ。

生意気でしかないということ。

相手の言葉を受け止めて、おちついて自分の意見を伝えることができなかったのはなぜなのか。

どうしてなのか。

それは、私はおごっているところがあったから。

謙虚ささえ持っていれば、彼にかみつくことは絶対になかったはずだ。

たしかに、そうなのだ。

私には、謙虚さがたりない。

「謙虚さを大事にしなさい」

それが自分に対するメッセージなのかもしれない。

大人気ない対応をしてしまったことに、果てしない底に落ちていくように感じるほどの「恥じ」と自分自身への「怒り」を感じていたけれど、そうじゃない。

私には、今謙虚さが必要なんだ。

今日という日は、もう戻らない。

だから、明日から、明日こそ、謙虚さをもっていたい。

謙虚さと少しの笑みを絶やさずにいたい。

きっとそれが、私へのメッセージなのだ。

 

リフレッシュしてきます

勤続まる10年がたちました。

それは、本当にあっという間で、大学4年間があっという間だったのとまったく同じように、その年数の実態をほとんど自覚できないくらいです。

最初のうちは、3年経ったら辞めて専業主婦になる、と思っていました。

しかしその夢はついぞ叶わず、あれよあれよと、10年を超えていました。

この10年、いろいろなことがあったけれど、不思議とイヤなことはあまり思い出せません。

いや、覚えていないこともないのですが、それがなかなかの美談にすり替わってしまっていて、気づいたら「イヤな思い出」フォルダにはなくなってしまっていました。

我ながらおめでたい思考ではあるけれど、それに固執していたら生きられなくないですか?

いやなことも美談にすることで、都合よく消化することができる。

きっとそれは、忙しい現代人みんなそうなのでないかと思うのです。

だって、イヤなことを引きずっていられるほど、みんな暇じゃないですもんね。

もっと大事なことがありますもんね。

さて、そんなこんなで10年。

そのご褒美に、と私の勤める会社では、「リフレッシュ休暇」というものをいただくことができます。

計10日間のお休みをいただけます。

私は、5日、5日と2回に分けて取得する予定なのですが、これがもう楽しみすぎて、仕事になりません。

リフレッシュという名なので、「休んでもっとがんばってね」ということなのでしょう。

しかし、私にとっては、まったく仕事には悪影響しかないようです。

すみません。

ということで、9月下旬にシンガポール、マレーシア、タイ。

11月下旬に、オーストリアチェコに行きます。

1回目は、同期でいくので、ほぼみんなにお任せしています。

「ここどう?」

いいねー!

「どこ行ってみたいー?」

動物園!(これは却下されました。泣)

とか、そんな感じでかなりのお任せをしています。

ホテルも飛行機も、特急電車も、工程もすべて同期がやってくれます。

本当にありがたい。

お任せしっぱなしのため、何も頭に入っていません。

空っぽ。

そろそろ、怒られるかもしれないので、あと2週間くらいで、猛勉強をしたいと思います。

一方、11月下旬のオーストリアチェコは、一人旅。

初めての一人旅!

しかも、ヨーロッパ!

だからこそ、なかなか計画が進みませんでした。

それはきっと大きな買い物になるだろうし、決めてしまったら後戻りできないし、それになによりも決めてくれる人がいない(ダメ人間)。

なので考えていたとしても、ぼんやり、ここいきたいな~っていうくらい。

好きで行く旅行なのに、いつの間にか、決めなきゃ決めなきゃと、義務感に責め立てられているかのようで、後ろ向きにさえなっていました。

しかし、1つのボタンを押すことで、この意識がいとも簡単に切り替わったのです。

たったひとつのボタンで。

たったそれだけで意識がこうも変わるか、と驚きました。

 

それは、こんなことから始まりました。

「ヨーロッパいく、って言ってたけど、航空券とったの?」と同期。

ううん、まだー。

「私、パリに行くことにしたんだけど、航空券とったよ。早くとったほうがいいよ!」

そっかー、うん、考えてみるー。

 

それでもまだスイッチの入らない私は、しぶしぶ、別の友人から教えてもらった、予約サイトにアクセスしました。(自分の旅行だろ!)

うーん、どうかなー、髙いよなー。

と思っていたら、なんと、往復で6万円を切る航空券を発見!!

これで本当に問題ないのか、ポーランド航空って大丈夫なのか、とかなんとか、うんうんと小一時間悩んでいたら、ついに残席があと2席に。

あー、これはもう買うしかない。

このまま0席になったら、めちゃくちゃ後悔する。

まだ2席残っているのに、妙に焦燥感にかられて、ポチっとしてしまいました。

 

それからというもの、頭のなかは、ウィーン。

モーツァルトにベートーベン。

オペラに、コンサート、ウィーン少年合唱団

頭の中は、もうすでに音楽の都でいっぱいです。

おじさんのじとっとした体温を感じる満員電車の中でも、ガイドブックを読んでいさえいれば、それほど気にならない。

仕事がたんまりやってきていても、ウィーンのことを考えていさえいれば、ルンルンと仕事ができる。

どうやら、そのボタンをポチっただけで、私の世界はガラリとかわったかのようです。

まるで、恋人ができた時のやうに世界がキラキラして見えます。

あー、航空券の予約ボタンには、そんな効能があったなんて!

なんとまぁ、素晴らしい!

さぁ、これからホテル探し。

どんなホテルに泊まろうか、どこの都市に泊まろうか、そんなことを考えているだけで、本当に楽しい。

ということで、わたし、リフレッシュをしてきます!

 

 

 

 

 

ネイルを綺麗にしていたり、

身なりを美しくしていたり、

カチョウやブチョウに昇進していたり、

お家をもっていたり、

素敵な旦那さんや子供がいたり、

はたまた1人を楽しんでいたり、

知識が豊かだったり、

物をたくさん持っていたり、

いろいろなひとがいるけれど、みんな同じ生物「人間」で、みんなそれぞれ喜びも不安ももちあわせて生きている。

なのになぜか、より「安心」を得るために、「肩書き」や「モノ」をほしがって、もしくは、持っていないワケを正当化して、自分を守ろうとする。

それが、きっと自分に「安心」をもたらしてくれるだろう、と。

社会的に認められるだろう、と。

 

私は、30代「独身女性」として生きているけれど、そこにもそれなりの理由をみつけてしまう。

仕事が忙しかったし、いい人と巡り合えていないのよね。

とかなんとか言って。

それに、独身でも楽しいのよ、と言って見栄を張ってもいる。

趣味のパン作りが楽しい、とか、文章を書いてスキルアップをしている、とか。

もちろん、やりたいことをやっているだけではあるけれど、どこかで、ほんの少しそこに見栄も顔をのぞかせている。

こんな風にしているから、寂しくはないのよ、と。

それが、ほんの少しだけたしかにあって、ゼロ%とは言い切れない。

そんな自分が、気持ち悪い。

 

人にどう思われようとも、自分がやりたいことをやって、楽しんで、満たされているだけでいいんだよなぁって最近思うんです。

自分が感じている「曲がらない真実」を大切にしつつ、

暖かい心でい続けること。

それこそが、わたしにとって本当の「安心」をもたらすのではないのかな、と。

淡々と、やるべきことをやっていけば、おのずと自分のなりたい姿になるはずで、

それを誰かに評価されなくていい。

「いいね」を求めようとしたり欲しがったりせず、潔く生きていたい。

なーんて、漠然と朝の通勤電車で居合わせた、ネイルが綺麗で、化粧をバッチリしている、素敵なオネエサンをみて思いました。

とりとめもない話ですけど。

なんかそうゆう月曜日の朝。

さぁて、淡々と、がんばりましょうかね。

 

鈍感であるというのは最強

こないだ、シュラスコを食べにいってきました。

シュラスコって知ってますか?

ブラジルの料理で、串刺しにされた大きな肉の塊を、テーブルにまわってくるウェイターが切り落としてくれる、というものです。

いろいろな種類のお肉を、時間内であればいくらでも食べられます。

テーブルには札が置かれて、表には「Yes please」と書かれていて、裏には「No thanks」と書かれている。

なので、食べたいときは「Yes」を表に、お腹がいっぱいになって少し休憩するときは「No」を表にして、テーブルにおきます。

すると、「Yes」のときはウェイターがテーブルに随時きて、切り落として分け与えてくれる。

「No」のときは、テーブルには来ない。

そんなシステムです。

それに、サラダもブッフェ形式になっていてたくさんの種類の野菜を食べることもできます。

そんな、シュラスコのお店に行ってきました。

最初は、いろいろな種類のお肉をもってきてくれるウェイターのお兄さんがくるたびに、「わー美味しそう」とかなんとか言いながら、テンションが上がっていたのですが、胃には残念なのですが許容量というものがあって、次第に満腹になっていく。

そして、「少し休憩しよっか」ということで、「No」に札をひっくり返してテーブルにおきました。

安心してゆったりして話に華をさかせていたのですが、しばらくするとウェイターが串刺しで焼かれた大きなパイナップルを持ってきました。

当然、素通りをしてくれるはずです。

だって、私たちは今「No」を表示していますから。

そうゆうシステムですから。

なのに、ウェイターは私たちのテーブルに先ほどと同じように止まって、動きません。

おかしい、と思って、顔をぬっと見上げると、どうやらブラジル人のようでした。

しかし、英語で書かれていますし、そもそもお店の人ですからルールは知っていますよね。

私たちの頭のうえにハテナマークが浮かんでいるのは明らかで、目を見合わせて笑っている私たちに、

小さな声でボソボソと「イカガデスカ?」と言うのです。

そう言われてしまうと、断りづらい。

「じゃ、じゃあ、お願いします」

渋々、承諾。

札が見えなかったのかな、おかしいね、と笑いながらパイナップルを貪る私たち。

けれども、その後もウェイターはくるのです。

「No」にしていても、彼はくるのです。

私たちの札の意思表示なんて、関係ないんです。

彼は、反抗期なのでしょうか。

それとも、サービス心が満点なのでしょうか。

札の意味が、ない。

札の存在価値が、ない。

見えているのに、見ないというのは、すごい力だと思います。

昔、「鈍感力」という本が流行っていましたが、その鈍感力というのは最強なのではないかと最近思っています。

他人がどう思おうと、それには動じない。

自分がいいと思うこと、幸せだと思うことをする。

人になにか言われても、自分の心にその言葉を立ち入らせない。

それができたら、最強だと思うのです。

無駄に凹むこともない。

落ち込むこともない。

そんな世界になるのではないか、と思います。

ウェイターの彼は、サービス業としてはどうかと思うけれど、人にどう思われるかというより自分がしたいからする、を愚直に実行しています。

きっと、彼は幸せでしょう。

仕事であれば、ルールを無視するのはよくありませんけれど。

けれど、彼の照れ臭そうな笑顔を見ていて、そんなことを思いました。

そんな鈍感力と、人の気持ちを察する敏感力をバランスよくもっていたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一回やすみ

「一回休み」

人生ゲームやトランプゲームで、それになると「負け」に一歩近くようで、なかなか喜べなかった。

自分だけ「おきざり」にされて、他の友達がコマを進める。

なんという孤独感と焦燥感。

待って、といっても誰も待ってはくれない。

そりゃ、当たり前だ。

誰しも、先にゴールしたいし、上がって勝ちたいのだから。

なのに、私はその「一回休み」をしようと思っている。

そのうちに、周りのひとはどんどん先に進むだろう。

きっとどんどん書く力を身につけて、どんどん面白い記事を書いていくだろう。

けれど、私は今日で終了した「プロゼミ」を、これで一度お休みすることにした。

あれだけ、楽しい楽しい、と騒いでいたのに?

あ、いつものように飽きたんだね、また辞めるんだね、と思われるかもしれない。

どう思われるかはわからないけれど、飽きたわけではない。

そして、辞めるわけでもない。

この3ヶ月間のプロゼミで、前回の3ヶ月に比べると、課題の提出率もあがったし、ウェブに掲載してもらえる率もあがった。

すくなからず、少しは成長できた、と思える。

けれど、自分に足りない力が、よくわかった3ヶ月だった。

自分が人に伝えたいことは、なんなのか。

自分はこの先、どうゆう形で書いていきたいのか。

まったく明確になっていなかった。

ただただ、書きたいこと、書いておきたいことを、書いた。

けれど、それがなんになるのだろう。

たしかに、書くことで、「私は」満足だった。

心の中にあることをカタチにすることで、すっきりしていたから。

けれどこれって、ただの自己満足じゃないか、自慢なんじゃないか、と思うようになった。

他の人に、読んでよかった、って思ってもらえるような文章ではないのではないか。

まったく自信がなかった。

その理由は明らかで、自分のスタンスが定まっていないからにほかならない。

書くことは好きなのに、書くネタがなくて、じゃあフィクションを書くかと思えど、まるで妄想力がない。

要は、書くことが「ない」。

なくなってしまった。

なくても書けるくらいでないと、このまま高いお月謝を払うのがもったいない。

だから、「一回休み」をすることにした。

その休んでいる間に、今自分に足りないことを補強する。

だから、これで終わりではないし、自分なりに書くレベルを上げていこうと思う。

一回休み、をどうやって楽しもうか。

それが、今、楽しみだ。

 

 

 

 

失ってわかること

当たり前だと思っていたのに、なくなった途端にその大切さが心にしみることってありますよね。

たとえば、実家に住んでいたのに、一人暮らしを始めた(または家庭を持った)ら、そのありがたみがよくわかる。

あー、ごはんが当たり前に出てきて幸せだったなー。

洋服も、洗濯してアイロンをかけてくれて、いつもきれいな洋服をきれていたなー。

「早くお風呂入りなさい」とかいわれて、うるさいと思っていたけれど、それが幸せなことだったんだなー。

とか。

今まで、親がやってくれていたことを、自分でやらなければならなくなって、やっとそのことに感謝できるようになる。

親がありがたい存在になる。

大事にできるようになる。

そんなことってありますよね。

私は、それと同じようなことを最近体験したのです。

今はやりの「糖質制限」で。

(ずいぶんとレベルが違うのは、承知のうえで書きます。笑)

ついこないだ、私も32歳だし、結婚や出産のことを真剣に考えなければ、とやっと決意しました。

それは、友だちがどんどん結婚して、子どもを抱いている姿をみて、そしてその子どもを抱かせてもらっていると、私も「そっち側」にいきたいなー、と思ったことからはじまりました。

いつもマイペースにやりたいことをやっている私に呆れた親から、ついに「離婚してもいいから、一度は結婚してよね」と言われてしまいました。

それで素直にも、そうだよな一度は結婚しないとな、と思ったわけです。(もしろん離婚はしません!)

だとすると、出会いもそうですけれども、この先半年後にはきっとウエディングドレスを着る(着たい)ので、きれいに着こなしたいと思いました。

それは、しごく自然なことですよね。

一生に一度の結婚式。

写真に残る晴れ姿。

恥ずかしい姿は見せられません。

ということで、ダイエットを固く決意したわけでございます。

何度も何度も同じような「決意」を口にしているわけですが、今度ばかりは違います。

なんせ、本当に、真剣に、結婚を意識したのですから。

だから、今度こそは成功させなければなりません。

親の喜ぶ顔がみたいではありませんか。

ということで、最近よく耳にする「糖質制限ダイエット」を開始したのです。

このダイエット、とても簡単。

ただ、主食を抜く、それだけ。

しかも、たったの2週間。

それ以降は、糖質を1日に50g取りながら、筋力をつけていく。

(ごはん1膳(150g)で、糖質は大体55.2gと言われているので、1日1膳は食べられる!)

本を読み込んだ結果、それで2か月で5キロくらいはやせられるだろう、という心づもりです。

うんうん、なるほど。これならできそうだ、と意気揚々と始めたのです。

肉、魚、大豆製品などでたんぱく質を取り、野菜をたんまり食べる。

スープにしたり、ソテーにしたり、いろいろとバリエーションを楽しみました。

これ、しっかり3食たべれて、全然ストレスない!

私に合っているかも! 

絶対続けられる!

そう思った矢先のことでした。

私の意志とは裏腹に、身体は正直なのです。

今まで毎日、毎日、なんならたんぱく質や脂質なんかよりもだんぜん摂取していた「炭水化物」。

もう恋しくて、愛おしすぎるので、炭ちゃん、とよんでみます。

そう、その炭ちゃんが急にいなくなって、最初は黙っていた身体も、ついにそれに気づいてしまいました。

最初はきっと今まで過剰に身体にはいっていた糖分で、なんとかだませていたのでしょう。

しかし、それがなくなるやいなや、おなかの雄たけびが止まらない。

グー。

グー。

グー。

しかも、肉や野菜を食べた2時間後には、騒ぎ出すのです。

もう、これは炭ちゃんに助けを求めようかと、なんども考えました。

ただ、私の決意も固い。

ここは譲れない。

我慢をしました。

けれど、我慢ができなくなって、許可されている「肉」を食べました。

そしたら、どうでしょう。

次の日、体重が増えているではありませんか。

あんなにお米を我慢したのに。

あんなに、あんなに、身体の叫びを無視したのに。

なんだか裏切られた気がしました。

頑張った自分が、むなしくなってきました。

そんな時、今まで、どれだけ炭ちゃんに助けられていたか、どれだけありがたかったか、を痛感したわけでございます。

炭水化物がどれだけ腹持ちがよくて優秀か、ということを実感しました。

野菜とお肉は、腹持ちがとてつもなく、悪い!

悪すぎる!

このことが、よーくよーくわかりました。

とはいえ、これからも私の「糖質制限」は続くのですが、さすがに仕事に支障をきたしそうなので、ランチだけお米を80g程いただくことにいたしました。

炭水化物の大切さが、身に染みたおかげで、これからは今までより「味わって」食べることができそうです。

なくなって大切さがわかる。

そうゆうことって、本当に、身近にあふれているものですね。

 

 

 

憧れの彼女に捧げる曲

「恵さん、コンクールに出てみない?」
有賀先生が、優しく微笑む。
この一言を、どれだけ待ち望んでいたことか。
私はずっと、コンクールに出たかった。
出てみたかった。
それは、1つ年上の朋代ちゃんを追いかけるため。
いや、追い越すため。
そのために、友達と遊ぶこともせず、部活も途中でやめ、ピアノに専念してきた。
毎日2時間ピアノと向き合った。
朋代ちゃんみたいに、なりたい。
彼女みたいに、私もコンクールに出たい。
ピアノを練習する目的は、それ以外になかった。
だから、有賀先生のその一言は、私を一気に舞い上がらせた。
「出たいです!」
私が出場することになったのは、「埼玉ピアノコンクール」の中学生部門。
中学2年生のときのことだ。

 

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[WEB天狼院] http://tenro-in.com/mediagp/39678

(かなりこっぱずかしい話ですが、もしよかったら読んでください)