私の記事読んでください、と言われて
おとつい、初めての体験をしました。
それは、「課題を提出しても、ずっと不可なのです。私の記事を読んでくれませんか」というお申し出をいただいたこと。
正直びっくりしました。
以前、ライティング・ゼミを一緒に受けていた方で、今再受講をされている方からでした。
これで3回目の受講をされているとのことで、大変真面目で熱心な方で、本当に素晴らしいと感服しました。
しかし、なぜ私に?
最近、サボりぐせがつき、毎週の課題の提出もままならない状態。
そんなのおこがましい、と思いました。
けれど、せっかくそのように言ってきていただいているのに、「それはちょっと……」ともったいぶるのもなんか気がひけます。
大変恐縮でしたが、お引き受けをしました。
その方の文章を拝見して、好き勝手に意見をするというのはとても勇気のいることでした。
だって、それは心の込めた記事なのですから、本当は、できればいちゃもんなんてつけられたくないものです。
それに、私はそんな意見をいえるほどうまく書けているわけではないのですから。
本当にすみません、と思いながらも読ませていただきました。
すると、「あ、こうしたらもっとよくなるな」というのは次々に出てくるのです。
自分が書いたものの時には出てこない、それ、が自然に出てくる。
人のミスは気づきやすい、とよくいうけれど本当だな、と実感しました。
都合がいいもんです。
このような機会をいただいたおかげで、私にとってとてもいい勉強になりました。
こう書けば分かりやすくなる、面白くなる、というのが客観的に、かつ直感的にわかった気がします。
それに、そのようにお声がけしていただいたおかげで、すっかり萎えきっていた「ライティング」への気持ちをもう一度呼び起こすことができました。
本当にありがとうございました!
私も彼を見習って、がんばろうと思います!
あぁ、もっと書かなければ。
明日から仕事だけれど、どうにか会社に行くことができるかもしれない
今日でゴールデンウィークが終わります。あぁ、悲しい。実に悲しい。今年は、カレンダー通り5日間の休みでしたが、本当にあっという間でした。「5」という数字を見れば長い時間お休みをもらっているのは分かるのだけれど、体感はとてつもなく短い。楽しい時間はあっという間というのは、本当に本当だ。その短く感じた5連休は、本当にありがたかった。このお休みがこのタイミングあって、本当によかった。おおげさに聞こえるかもしれないけれど、私にとってこの休日は砂漠の中のオアシスのようでした。このお休みのおかげで私は人間として、また生き返ることができたのです。
というのも、ここ2か月くらい仕事だけに追われ、精神的にストレスフルで。久々の終電、始発での生活。仕事をやりきった後、達成感はそれなりにありましたが、自分の好きなことができないことがストレスでたまりませんでした。
料理もできずコンビニ飯の毎日。
文章を書くこともできず、毎週の課題提出も見送ってばかり。
友だちとの会話もそこそこ。LINEがきても一言返すのが精いっぱい。
なんだか、それらを繰り返すたびに、心がチクリチクリと痛んでおりました。どれも不完全で全然気持ちのいいものではありませんでした。あぁ、仕事しかしていない自分というのは、本当に耐えられない。ムリだ。きもちが悪い。仕事もちゃんとやり、プライベートも充実させていなければたいそう居心地が悪すぎることに、この忙しさのおかげであらためて気がつくことができました。逆説的ではありますが。
なので、この5日間は、その2か月のストレスを一気に解消することを目指しておりました。
まずは、心から信頼できる親友と会う。会って話す。話して笑う。ただこれだけのことで私にとってはとてつもなく素晴らしい時間になった。アミューズメントパークにいったりとか高級なレストランにいったりするようにお金なんてまったくかけていない。ただただ食事してお茶を飲んだだけ。なのに、私にとってはエステやマッサージをしてもらったかのように、気持ちがスッとなって、凝り固まった肩は適度に力が抜けて、枯れてなくなっていたパワーが蘇えりました。本当にありがたい。自分が取り戻せたような感じがしました。やはり、親友との時間は、私にとって至極の時間だということをあらためて実感しました。
それから、課題の記事にとりかかる。今まで毎週見送ってばかりいた課題に取り組みました。本を読んだりパソコンに向かって書いてみました。しかしながら、どうしても2000字止まりでなかなか提出レベルに達っせず、納得のいくものはかけません。ただ、そのチャレンジをできたこと、それだけで満たされていきました。やっと取り組めた、と。それだけでいいんです。自分に甘々ですけれど、いいんです。
そして最後に、ミニマリストになるべく、部屋の中にあるものを捨てる。これは、ずっとやりたかったこと。「ミニマリストになりたい」ことは前回の記事で書きましたが、この休みで本腰をいれてやってやりました。2つあった棚は捨て、本も8割捨てました。CDも捨てた。使っていないタオルも、お皿も、どんどんゴミ収集ボックスにつっこんでいきました。すると、部屋のなかが、スッキリ。気持ちもスッキリ。
閑散とした部屋にいると、この部屋に引越をしてきた当初のことを思い出しました。あの頃、モノがあまりにもないことに、不安になっていました。それからどんどん自分の欲求のままにモノを買いそろえ、それに比例して部屋はどんどん狭くなっていったのです。気づかぬうちに。それは、じわじわとモノの波に浸食されていくような感覚でした。それが嬉しかったんです。自分の好きなものに囲まれて幸せを感じていました。しかし、いつの間にかそれが当たり前になって、かつてあった幸せはどこかにいってしまって、ただの狭い部屋がそこにありました。もしかしたらその部屋で、どこか息苦しさを感じていたのかもしれません。だからか、今、モノが少なくなり、部屋に空白ができると、生き返ったかのように心地がいい。あぁ、モノを捨ててよかった、と心は満たされることができました。
ただただ、これだけのゴールデンウィーク。特にインスタに掲載できるような、リア充な過ごし方はまったくしていません。けれど、親友との時間と、自分の好きなことと向き合う時間と、モノのない部屋のおかげで、心のエネルギーはレギュラー満タンにすることができました。
明日は仕事です。いつもだったら、連休明けは憂鬱で、サザエさん症候群に真っ先にかかっていました。けれど、この連休のおかげで、今までの自分を取り戻し、エネルギーをいっぱいにできたからか、明日はどうにか出社できるかもしれません。私はそんなに仕事が好きなわけではありません。けれど、なんとかいけそうなのです。
たぶん、エネルギーが満ちてきて、出社してやってもいいよとカラダが思っているからかもしれません。
明日からは新入社員の研修がはじます。今年は68名の新人さんと1か月を過ごします。どんな子がいるのか、どんな毎日になるのか、ドキドキしますが、ゴールデンウィークでいただいた力を明日につなげていきたいと思います。
ミニマリストになりたい
私は、いつだったか、ミニマリストになりたい、とぼんやり思っていた。
きっかけは何気なく、本屋さんで手に取った一冊の本。
その頃は、まだ「断捨離」という言葉がメジャーデビューをする前後だったと思う。
本の題名を忘れてしまったけれど、とにかく「モノを少なくするといい」というようなそんな感じだった。
表紙には、著者が草原で、お団子頭にシンプルな白とベージュの服装で瞑想をしているような、どこかヨガを連想させるような、とても健康的な写真が載っている。
著者は、フランスかどこかに留学して、大学院まで出て、そこで出会った教授に日本の「布団」はえらくエコだと感心されたことに感銘を受け、その教授のミニマリストぶりに多大なる影響を受けたそうだ。それで、フランスから戻って鎌倉に住むようになると、モノは買わず隣人から借りるようになったという。その徹底ぶりは素晴らしい。たとえば、服は片手で数える程度。食べる物は自分で育てる。ティッシュは何度も使う、など。もうすっかりおぼろげな記憶しかないけれど、そこまでするか、とあんぐり口をあけて驚くような暮らしっぷりだった。とにかく、モノにあふれた現代人には考えられられないような暮らしをしている人だった。
この本を読んで、
ふーん。こんな人もいるんだな~私も機会があったらやってみたいな~
というように呑気に考えていたものだったが、なにも行動は起こさず。
しかし、今度は自分が少しだけ本気で「ミニマリスト」とやらになってみたくなってきた。
今回のきっかけは、あの、平野ノラ。芸人さんだ。
バブリーを売りにした派手な芸風だけれど、私生活は超がつくほど質素だそうだ。
彼女の部屋は、古い和室。畳に押入れがあって、部屋に入って見渡すと人が住んでいるとは思えないほどにモノが全くない。見当たらない。モノは押し入れの中に入っているだけという徹底ぶり。
いやー、これはすごい。
その様子をテレビで見て、普段とのギャップに驚くと同時に、かっこいいと思った。
ミニマリストになりたい、というよりは私もそのギャップほしい、その想いの方がもしかしたら強いのかもしれない。
番組が終わるやいなや、「捨てるものはないがー」と泣く子を追い回すなまはげバリに、部屋の巡回を開始した。
いち早く目を付けたのは、本棚。一度読んだだけでもうよむ予定のないものはすべて、ゴミ箱行き。30冊くらい、私の欲望の犠牲になってしまった。ごめんよ、本たち。
その次は、炊飯器。もう、かれこれ1年以上使っていない。鍋で炊くようになり、触れることすらなくなった。鍋で炊いたほうが、早い。そしてうまい。そうゆうわけで、炊飯器は私にとって、てんで必要でないものになってしまっていた。ということで、こちらもさようなら。
最後に、目をつけたのがお皿。一人暮らしのくせに4人くらい暮らしていそうなほどの皿の量。どう考えてもこんなにはいらない。友だちがきたときに必要だから……と思っていたけれど、友だちが来たときは紙皿で十分対応できる。普段の生活には、過剰な量のお皿は、「食後に洗わなくてもまだまだ使えるお皿はある」という言い訳でシンクに汚いお皿を増やすだけなのだ。そう、自分を怠惰にするだけだった。そのことに気づいたら、もはや大量の皿が悪の根源にしか思えなくなってしまって、まったく惜しむことなく、こちらもあっさりさようなら。
ここまできて、部屋はずいぶんすっきりした。部屋よりも気持ちの方がすっきりしたかもしれない。ナマハゲも子どもに泣かられればなかれるほど快感を感じるのだろうか。だとしたら、結構仲良くなれるかもしれない。
なんて妄想すると、今度は、少しミニマリストに近づいたな、と自己満足がこみ上げてきた。そしたら、誰かにこの気持ち良さをたまらなく伝えたくなった。そうだあの子に、と思い立って「モノを捨てる」ことにおいてついこないだ意気投合していた友人にLINE。今、結構捨ててやったよ、とかなり得意げに、そうドヤ顔でかなりどうでもいい報告をした。
すると、すぐに彼女から画像が送られてきた。
「私の本棚」というメッセージと共に送られてきた写真には、4冊の本しか映っていなかった。どうやら人にあげたり、売ったりして、残ったのがこの4冊とのこと。
あぁ、負けた。完全敗北だ。まだまだ私は初心者レベルなのだと思い知った。このくらいでドヤ顔をしている場合ではなかったのだ。
ということで、今日は、帰るやいなや、私はまた本棚と向き合い、ナマハゲ業を行う。そしてきっとこの欲望は本棚にとどまらず、ついにはタンスにも手をかけるだろう。
すっきりした部屋を手に入れるのはいいが、いつか後悔する日がこないことを祈るばかりである。
さくらももこってすごいな
たいのおかしら、をここ最近読んでいます。
さくらももこさんが書いたエッセイです。さくらももこさんは、周知のとおり「ちびまるこちゃん」や「コジコジ」の漫画で有名な漫画家です。これらの漫画も可愛くてすごく好きです。特にコジコジ。
だけど、彼女のエッセイがとてつもなく、すごい。
中学だったか、そのくらいの時に彼女のエッセイ「もものかんずめ」とか「さるのこしかけ」「まるこだった」などを初めて読んで、面白くて何度も読んだ覚えがありますが、友人のおすすめ本として紹介してもらって、再度読み始めました。
その時は、ただただ面白いとしか思っていなかったのですが、今読んでみると、いろいろなことに気がつくのです。
今、文章を書く勉強をしていると、いろいろな壁にぶちあたります。
まずは、ネタ探し。面白い、人に共感してもらえるようなネタがなかなか見つからない。書きたいのに、何を書けばいいのか、と悶々とする。これ、結構大きな壁。
それから、自分の考えが、ない。だから、何か起こったことを書いても、着地がうまくいかない。途中まで書いても、結末がうまくまとまらないから、すっきりした記事にならない。日頃から深く考えていないことを痛感する。
一方、さくらももこさんは、ネタが豊富。漫画を描いたりしているから、日頃から何か面白いことはないか、その時にどう思ったか、きっとアンテナをはっているのでしょう。
また、自分の思った気持ちを率直に書いているので、読んでいるこちらがスっとしたり、クスっと笑ってしまうのです。ちゃんと自分の「考え」がある。
さらに加えると、表現方法が独特で、「ひがみ」だったり「自己卑下」をかなり含めた表現をする。それってなかなか勇気のいることなんですけど、それを怖気づかずに書いているのがすごい。そして、読み手に分かりやすいような「たとえ」が秀逸。少し、斜めから見ている感もあるけれど、それも痛快でそれがまたいい。
こんな文章が書けるようになったら、楽しいだろうな。これから、何度も読んで、面白さの理由を研究しようと思います。
4末まで仕事がいちばんの繁忙期で、心も体もくたくた。なので、リフレッシュのために久々にコストコいってきます!
自分の頭のなかのフォルダ
こうして、文章を書くようになってから、今まで気づかなかったことに気づくようになりました。
一番は、自分が根暗であるということが、まざまざと見せつけられたことがあります。
もともと、その自覚はあったのですが、こうまで暗いか、と自分にちょっとがっかり。というのも、これまでの自覚は、なんとなくぼんやりだったのです。だから、見過ごしていました。そうゆうとこもあるよな、くらいの軽い気持ちでした。
「私さぁ、根暗なんだよね~」
たぶん、高校生のときはこう言っては、何かにつけ友だちと深い話をすることが好きでした。悩みをみつけては話していたと思います。1つのことを掘り下げて考えて、あーでもない、こーでもない、と話続けていました。きっと、悩むこと自体が好きだったんだと思います。悩む自分に酔っている、かもような。それに、深い話をすることで、友だちと少し距離が縮まるような気持ちになれることも、たぶん助長していたでしょう。この時は、ただ自分にはそうゆう側面があるよな~、くらいの自覚。
しかし、文章を書こうとするとそれが、もうハッキリとする。それは、まるで乱視でメガネをかけていないときの見え方と、メガネをかけたときの見え方くらいの違いなのです。
それはこうゆうことです。
2000字なり5000字の記事を書こうとします。すると、自分の暗い、黒いところばかりが出てくるのです。あれ、楽しい話が全然でてこないな。毎日、おもしろいことは起きていてなにかと笑っているはずなのに。思い出せない。楽しい思い出が、私の頭には残っていない。その時その時は楽しくても、笑った瞬間に即座にデリートされているような気分です。一方、いやなことや怒ったことは、しっかりと脳内フォルダに保存されていて、記事を書こうとするとそればかりが引き出されてくる。
外面よく、いつもニコニコしていると、自分の心のドス黒さに自分でも気づいていないところがありました。もしかしたら、言葉の端々には出ていたのかもしれません。グチをいったりしているので、おそらくそうだったのだと思います。何かにつけて、悪いところを見つける思考回路をしていたと思います。あぁ、ここまで黒かったのか。
だから、これからは考え方を変えていこう、と思います。楽しい記事を書きたい。ぷっと笑えるような記事を書きたいから。
できごとやものごとをプラスに変換していきたい。どんな過程を経ていたとしても、最後がプラスで終わっていればきっとプラスフォルダに格納されるはず。だから、イヤなことがあったり腹が立っていても最後の着地はプラス。これでよかった、と思えるように着地する。そう「解釈」することで、それがただの「いやな出来事」から何か自分なりの「教訓」に変わっていくかもしれないな、と思います。
そして、プラスフォルダはデリートしないよう、そしてもしデリートされても思い出せるようにしていこうと思います。メモだ、メモ! 頭で忘れてしまうのであれば、残せる形にしていこう。
根明にはなれないかもしれないけれど、根明の仮面を目指します!
はんぼーぼー期
繁忙期となりました。
なにかと落ち込みがちなこの時期を、出来るだけ明るい気持ちで乗り切りたい。
とても忙しくて、気持ちが落ちがちな辛い状況でも、その状況を楽しんで仕事をしている人を思い浮かべてみました。
睡眠時間が2時間で、お客様に怒られたりしても、どこかで力を抜いてその状況すら楽しんでいるように見える人。
いやなことを、笑いに変換できる人。
辛い状況でも遊びごころを忘れていない人。
そうゆう人は、仕事はできるし、人からも好かれています。
魅力的なんです。
自分のできないことが炙り出てきて、なかなか気持ちが落ち込みそうな時。
そんなときこそ、くだらないことを考えてみませんか?
甘くてふわふわで幸せでした
「どう? 美味しい?」
「ふ……」
日頃の生活で、「ふ」ってあまり出てこないですよね。「え」とか「あ」とか「わ」とかは出てきても、「ふ」って私は出てこないんです。どうやら本当に、本当に、心から美味しいときにでてくるのは「ふ」、ということが分かりました。
これは、人生で一番おいしいフレンチトーストを食べたときにでた一文字。これは、単語でもなんでもない、ただの息に「ふ」という音がついただけのなんの意味ももたないものですけれど、一文字で表現できる言葉って面白いですよね。
「と」といえば、戸棚の戸。
「は」といえば、歯でもあるし、イントネーション次第ではいけすかない奴に喧嘩を売る言葉でもある。
「か」は課もあれば蚊もある。
こう考えていくと、一文字で言葉を成り立たせようとしたことってそれ自体がすごくないですか? だって、他の意味に取られるリスクがあるじゃないですか。それをいったら、2文字だって3文字だって同じですけど。けれど、たった1文字で単語にする勇気がすごいと思うんです。たった1字ですよ? 男気を感じませんか? 短すぎるからと、なんとなく長くしておきたい気持ちにかられなかったのでしょうか。私だったら、1文字は少し不安だ。いや、すごく不安だ。せめて3文字以上にしちゃうだろうなって思うんです。
アルファベット1文字で表現できる単語ってあるのでしょうか。ないような、気がします。他のスペイン語、フランス語、イタリア語、などヨーロッパのほうってどうなんでしょうね。なんとくなんですけど、ないような気がしてなりません。(というか、ないと言ってくれ)
けれど、中国語や韓国語はたぶん一文字の単語があるでしょう。日本語のこの一文字の言葉というのは、アジア圏の仲間である証拠のように思えてきました。(本当かどうかはわかりませんけど)
言葉の語源とか、仕組みとか、まったく勉強したことないですけど、1つの単語がどのように成り立っているのかと思いを馳せてみるのも面白いかも。
※ただのつぶやきですみません。
フレンチトーストファクトリー @秋葉原